2025年5月26日
企業の枠を超えた知の流動化:スタートアップ×大企業人材「スタボノ」の可能性
先日、特許庁が実施した「スタートアップの課題解決のためのプロボノチームに関する調査研究」の要約版報告書が公開されました[1]。私は本調査の有識者委員会において委員長を務める機会をいただき、この新しい取り組みを間近で見守ってきました。
この調査研究では、大企業に所属する人材がその専門知識や経験を活かして、スタートアップの課題解決を無償で支援する「プロボノ」活動に焦点を当てています。特にスタートアップ支援に特化したプロボノ活動を「スタボノ」と名付け、その効果と実践方法を多角的に検証しました。
日本のイノベーションエコシステムを活性化するためには、大企業とスタートアップの間での知識や経験の流動化が求められます。しかし、両者の文化や仕事の進め方の違いから、効果的な協働には様々な障壁があります。本調査ではそういった課題を乗り越える一つの手段として「スタボノ」の可能性を探りました。
本コラムでは、この調査研究の内容を紹介しながら、スタートアップと大企業人材の新たな協働モデルについて考察します。これから紹介する知見が、企業の枠を超えた人材交流や共創の参考になれば幸甚です。
調査の背景と目的
近年、日本においてもスタートアップエコシステムの醸成が課題となっています。しかし、多くのスタートアップは資金だけでなく、専門人材の不足という壁に直面しています。とりわけ、知的財産戦略や法務、マーケティングといった専門領域の知見は、事業成長の鍵となるにもかかわらず、初期段階のスタートアップでは十分な体制を整えることが難しいものです。
一方、大企業には豊富な経験と専門知識を持つ人材が多数存在します。しかし、彼ら彼女らの知見やスキルが企業の枠を超えて活用される機会は限られています。大企業人材にとっても、新たな環境での挑戦や、自分の専門性を別の文脈で試す機会は、キャリア形成において貴重な経験となります。
このような状況を踏まえ、本調査研究では、大企業人材がスタートアップの課題解決を支援する「スタボノ」というアプローチに注目しました。これは一時的な支援にとどまらず、長期的には大企業とスタートアップ間でのナレッジの流動化を促進し、両者の事業成長につながることを目指しています。
本調査の短期的な目標は、スタボノの意義と成功のための秘訣を整理することです。その先には、スタボノの普及や多様な人材活用手法の展開、さらには大企業・スタートアップ間での関係性構築を通じた、双方向のナレッジ流動化という目標があります。
具体的には、「業務時間外」かつ「金銭報酬なし」という条件下で、専門知見を活かした支援活動がどのように機能するのか、その実態と効果を検証することを目的としています。
調査の実施内容
本調査は「調査パート」と「実証パート」の二つを軸に進められています。調査パートでは文献調査やヒアリングを通じて基礎的な情報収集を行い、実証パートではスタボノプロジェクトの実施と参加者向け研修を通じて実践的な検証を行いました。
調査パートでは、有識者からなる委員会を設置し、スタートアップ支援やナレッジ流動化に知見のある専門家から意見を集めました。委員会は4回にわたって開催され、事業のあるべき姿や進捗状況について議論が交わされました。委員は多様なバックグラウンドを持つメンバーで構成されており、私もその一人として参加させていただきました。
公開情報調査やヒアリング調査も実施されています。スタートアップへの人材流動の実態やプロボノを通じて得られる効果について、既存の類似事業の報告書や学術的な文献などから情報を収集しました。ベンチャーキャピタルや大企業、人材事業者などへのヒアリングを通じて、スタボノの有用性や運営上の留意点に関する示唆を得ています。
実証パートでは、特許庁および国内ベンチャーキャピタルから推薦されたディープテック・スタートアップ10社に対して、各社3名1組のスタボノ参加者をマッチングし、約3か月間にわたるプロジェクトを実施しました。参加者は国内知財関連コミュニティやキャリアプラットフォームを通じて募集され、各チームに少なくとも1名は知財専門性の高い人材が配置されました。
このプロジェクトと並行して、参加者向けの研修プログラムも企画・実施されました。研修は全14時間程度のカリキュラムで、チームビルディングやプロジェクトマネジメント、自己理解を深めるワークショップ、さらにはプロボノ経験者や複業経験者によるパネルディスカッションなど、多彩な内容で構成されました。研修の目的は、スタボノでの学びを最大化すること、スタートアップキャリアへの理解を深めること、そして今後のキャリアでスタボノでの学びを活かすことに集約されます。
プロジェクト期間中は、事務局による伴走支援も行われ、特に開始から1か月間は重点的にサポートが提供されました。スタボノ参加者とスタートアップの間でのコミュニケーションをサポートし、相互理解を促進する役割を担いました。
プロジェクト実施結果
10社のスタートアップと30名のスタボノ参加者によるプロジェクトは、多様な成果を生み出しました。参加したスタートアップはマテリアル、バイオ、IoT、エネルギーなどの分野の企業で、設立後1年から10年程度と幅広い段階にありました。スタボノ参加者も事業会社の知財担当者、弁理士、法務担当者、マーケティング担当者、エンジニアなど、多様な人材が集まりました。
プロジェクトにおいては、周辺特許・競合出願分析、技術用途の探索、契約スキームの提案、IPランドスケープ実施マニュアルの作成、出願戦略の提案など、知財関連の課題に取り組みました。これらの成果物はスタートアップの事業戦略に役立つものとなり、高い評価を得ました。
ある事例では業界知見と知財・法務領域の知見のかけ合わせにより、スタートアップの意思決定プロセスが加速しました。このチームでは、スタボノ参加者のうちの一人がプロジェクトリーダー役を担い、スタートアップとの合意形成やスケジュールマネジメントを主導しました。また事業分野に詳しい人材がチームに参画したことで、専門的な理解が深まり、具体的な提案につながりました。
別の事例では、知財に取り組む必要性から参加者がレクチャーしたことで、スタートアップが知財の重要性を認識するという成果も生まれました。スタートアップのミーティングとは別に、チーム内でも密にコミュニケーションを取り、互いにタスク進捗を確認し合う体制を構築したことが成功の鍵となりました。
さらなる事例では、参加者が自身の業務経験を活かしたことで、スタートアップが着手できていなかった知財関連業務が進捗しました。プロジェクト初期に対面でコミュニケーションを取る機会を設けたことで、相互理解が進み、スタートアップのビジネスへの理解が深まりました。
一方で、プロジェクト進行上の課題も明らかになりました。例えば、スタボノ終了時のアウトプットイメージが定まっていない、スタボノ参加者内でのミーティングが行われない、スタボノ参加者に任せきりになる、スタボノ参加者がスタートアップへの質問を遠慮してしまうといった「要注意サイン」が特定されました。
重要だったのは、明確な事業課題の設定とスタボノ参加者内でのプロジェクトリーダーの選定です。これらがないと、プロジェクトがなかなか始まらなかったり、作業の抜け漏れが増えたりするケースが見られました。スタートアップと参加者の期待値のすり合わせも大事でした。参加者は無償で活動しているため、どこまでお願いして良いのかスタートアップ側が迷うケースもありました。
調査からの示唆
本調査からは、スタートアップ、プロボノ参加者、運営事務局のそれぞれに向けた示唆が得られています。
スタートアップ向けの示唆として、プロボノ活用に関する懸念点とその対応策が明らかになりました。多くのスタートアップは、自社の機密情報を開示することや、プロボノ参加者の本業所属先が競合だった場合の情報漏洩リスクを懸念していました。これに対しては、キックオフミーティング時にNDAを締結することや、事前に参加者の情報を確認することで対応できます。プロボノに何を依頼すべきかイメージが湧かない場合も多いため、支援メニュー例を整理しています。
プロボノ参加者向けの示唆としては、参加前の懸念点とその対応策、および参加のモチベーションが整理されました。多くの参加者は「業務時間外でプロボノが実施しきれるのか」という不安を抱えていましたが、定例ミーティングの時間帯を業務時間外で固定化する、日々の質問・進捗確認はチャットツールを活用するといった工夫で、多くの参加者が本業と両立しながらプロジェクトを完遂できました。
参加のモチベーションとしては、「スタートアップに貢献したい」「社外の多様な人材と協働したい」「自分の知識を現場で試したい」「自分の強みを再発見したい」といった思いが挙げられました。
運営事務局向けの示唆としては、スタボノ運営に関するチェックリストが作成されました。開始前の準備段階では、支援先スタートアップの窓口担当者の確認や、スタボノ参加候補者の所属企業の確認が求められます。キックオフ段階では、対面でのミーティング設定やNDA締結の依頼、成果物の帰属の確認などが求められます。開始後は、スタボノチーム内でのミーティング実施の促進や、懸念点が見られる参加者への個別面談などが効果的です。
スタボノから見えた気づき
スタボノプロジェクトの進行を委員長として見守る中で、私自身が得た気づきをいくつか共有したいと思います。調査報告書には客観的な分析が記載されていますが、ここでは私個人の視点から、印象に残った三つのポイントについてお伝えします。
スタボノプロジェクトを通じて実感したのは、第一に、課題設定の過程がプロジェクト全体の成否を左右するということです。いかに的確な課題を設定できるかが、その後の活動の土台となります。この過程においては、スタボノのチームメンバーとスタートアップの担当者が率直に情報や意見を交換できる関係性の構築が必要です。
実際のプロジェクトでは、スタートアップ側が当初考えていた課題が、専門家の視点から見ると必ずしも最優先で取り組むべきものではないケースもありましたし、逆のケースもありました。課題が明確に設定されていない場合や、スタートアップの本質的なニーズを捉えていない場合には、どれだけ質の高い作業を行っても、その成果物が事業に有益なインパクトをもたらさないという残念な結果になりかねません。
さらには、プロジェクトの途中で課題の本質的な部分を変更せざるを得なくなり、それによってチーム内に混乱が生じ、限られた期間内での成果創出に支障をきたすケースも見受けられました。こうした経験から、プロジェクト初期の段階で十分な時間をかけて課題を深掘りし、スタートアップのニーズと専門家の知見の双方を踏まえた上で、課題設定を行うことの重要性を感じました。
第二に、専門知を効果的に活かすためには、その周辺的な知識も積極的に動員しなければならないということです。例えば知財の専門家であっても、単に特許出願の技術的な知識だけでスタートアップの課題解決に貢献できるケースは多くありません。実際には、業界動向や市場の構造、競合他社の事業戦略、関連する法規制など、自身の専門分野を取り巻く幅広い知識を組み合わせることで、実践的で有用な提案ができます。
スタートアップの場合、リソースが限られているため、専門知識をいかに事業全体の文脈の中で活かせるかが重要になります。深い専門性はもちろん価値がありますが、それと同時に、その専門知識をどのように活用すれば事業成長に寄与するのかという広い視野も持ち合わせているスタボノ参加者が、結果的に貢献をしていました。自らの専門分野の枠を超えて学び続ける姿勢や、異なる領域の知識と自身の専門性をつなげる思考が、スタボノの成否を左右することを感じました。
第三に、役割分担を含むチームプロセスが重要であるということです。いくら優秀な専門家が集まっても、それぞれが個別に動くだけでは、統合された価値ある成果を生み出すことは困難です。チームとして機能するためには、メンバー間の円滑なコミュニケーション、効率的な情報共有の仕組み、そして各自の強みを最大限に活かせる役割分担が必要です。
特に印象的だったのは、リーダーシップの果たす役割の大きさです。うまく機能していたチームには、全体の進捗を把握し、メンバーの活動を調整し、スタートアップとの窓口としても適切に機能するリーダーが存在していました。
重要なのは、画一的なリーダーシップではなく、チームメンバーの特性や専門性、そしてスタートアップの状況に応じて柔軟にリーダーシップのスタイルを変化させることです。ある場合には方向性を明確に指し示し、またある場合にはメンバーの自主性を引き出すファシリテーター役に徹するなど、状況に応じたリーダーシップがプロジェクトの前進に機能したと言えます。
このようなチームプロセスの重要性は、通常の業務環境でも同様ですが、異なる組織からの人材が集まり、限られた時間の中で成果を出さなければならないスタボノの文脈では、特に顕著に表れていました。
脚注
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。