2026年3月23日
組織の課題を科学で読み解く:『世界の研究者はマネジメントをどう分析しているのか』出版記念コラム

この度、『世界の研究者はマネジメントをどう分析しているのか』(労務行政)という書籍を執筆しました。本コラムでは、出版を記念して、本書の概要を紹介しながら、学術研究の知見が組織マネジメントにどのように貢献するのかを解説します。
従業員のためを思って設計した新しい人事制度が、業務の現場でほとんど活用されない。従業員の労働意欲を高める取り組みを推進しているにもかかわらず、与えられた最低限の業務のみをこなす姿勢をとる人々が増えている。高く評価していた優れた人材が、何の前触れもなく突然離職してしまう。日々組織を牽引し、メンバーと向き合っている管理職や人事の皆さんは、人や組織に関する尽きることのない課題に直面していることと思います。
こうした課題に対する解決策を検討する際、私たちは自分自身の直感や、過去の業務で培ってきた経験上の法則、もしくは他企業で成果を上げた事例に依拠して判断を下す傾向があります。現場での長年の実践を通じて蓄積された経験則は、日々の迅速な意思決定を機能させるために重要であることは間違いありません。
しかし、自身の経験や過去の成功体験に依存していては、思い込みに囚われてしまい、原因を見誤ってしまう危険性があります。そこで本コラムでは、学術研究という新たな情報源を活用するアプローチを提案します。学術研究に触れることは、自分にはない新たな視点を獲得し、視野を広げることにつながります。それが結果的に、複雑な組織の課題に対する意思決定の精度を高めてくれるのです。
なぜ今、マネジメントに学術研究が必要なのか
現代の企業経営や人事管理において、過去の経験則だけに頼ることが危険な理由は、自らの視野を狭めてしまう点にあります。私たちは「以前はこの方法でうまくいった」「他社がこの制度で成功している」という経験や事例を重視してしまいます。しかし、そうした経験に過度に依存すると、目の前の課題を特定の枠組みでしか捉えられなくなり、表面的な対処に終始してしまう可能性があります。
日々の業務の中で直面する問題に対して、より多角的にアプローチし、意思決定の精度を高めるために必要となるのが学術研究の視点です。学術研究に触れることは、自分が持っていなかった新しい視点や思考の枠組みを獲得するプロセスに他なりません。
学術研究という言葉に対して、実務から遠く離れた抽象的で理解が難しいものだという印象を抱く人もいるでしょう。日常の忙しい業務の中で、学術論文を読む時間を確保することは現実的ではないと考えるのが一般的でしょう。しかし、世界の研究機関で蓄積されてきた調査結果は、膨大な人数の行動データや意識調査の精緻な解析に裏打ちされており、組織内で人間がどのように認識し、どのように行動を選択するのかについて、様々な角度からの示唆を与えてくれます。
これらの研究成果は、特定の企業の特殊な事例ではなく、多様な条件を統制した上で検証された事実を含んでいます。したがって、学術研究の知見を学ぶことは、自らの経験や直感だけでは気づけなかったメカニズムに光を当て、思考の幅を広げることにつながります。この新たな視点を持ち合わせていれば、自社で発生している問題に対しても、当てずっぽうではない仮説を立て、より精度の高い解決策を導き出すことができます。
学術研究は実務から遊離したものではなく、自分自身の思考を拡張し、意思決定を洗練させるための実用的な知識体系です。
正解ではなく使いどころを知る
学術研究の知見を実務に取り入れる際、注意しなければならないのは、研究結果をどのような状況にも適用できる真理として扱わないことです。分かりやすく、多くの人が共感しやすい理論ほど、その前提条件や適用範囲が無視され、曲解されて世の中に広まる傾向があります。その典型例として、人間の欲求を5つの段階で示した、マズローの欲求階層説が挙げられます[1]。
欲求階層説は、下位の欲求が満たされて初めて上位の欲求が現れるというピラミッド型の図で広く認知されており、研修や人事制度の設計でも引用されます。しかし、学術的な検証によれば、人間の欲求が明確に5つに分類されるわけではなく、階層的に一つずつ満たされていくという構造もデータによって裏付けられていません。さらに、有名なピラミッド型の図解は、マズロー本人が提唱したものではなく、後世のコンサルタントが作成した図であることが分かっています。視覚的に分かりやすい図が作られたことで、理論が単純化され、誤った解釈が定着してしまったのです。
また、現代の人事領域で用いられる「エンゲージメント」や「心理的安全性」といった肯定的な概念についても、慎重な取り扱いが求められます。
私たちは通常、従業員の仕事への熱意を示すエンゲージメントは、高ければ高いほど組織に良い結果をもたらすと信じています。しかし研究によれば、エンゲージメントが過度に高い状態は、自分の仕事に対する強い所有意識を生み、縄張り意識を強化して他者との情報共有を拒む原因になることが指摘されています。さらに、仕事に没頭するあまり、私生活との境界線が曖昧になり、家庭生活との間に葛藤を生み出す危険性も確認されています。
同様に、チーム内で率直に意見を言える状態を指す心理的安全性についても、無条件にすべての職場で効果を発揮するわけではありません。決められた手順を正確かつ効率的に遂行することが求められる定型業務中心の職場において心理的安全性を過度に高めると、手順に関する不要な議論や業務に直接関係のない会話が増加し、業務の生産性が低下するという調査結果が存在します。新しいアイデアを創出する場面では有効な心理的安全性も、効率性が最優先される場面では逆にマイナスの影響を及ぼすのです。
本書が目指しているのは、これらの広く知られた理論や概念を否定することではありません。そうではなく、それぞれの理論がどのような条件の下で機能し、どのような環境下では逆効果になるのかという「使いどころ」を明らかにすることです。研究結果が示す事実を多角的に理解し、自社の組織文化や業務特性と照らし合わせて適用できるかどうかを判断する視点を持つことが、学術研究を実務に生かすための前提となります。
現場の「なぜ?」に答える6つのテーマ
本書は、組織運営における様々な課題を6つの大きなテーマに分類し、それぞれのテーマに関連する学術研究の知見を紹介しています。各章の内容は、現場で発生する疑問に対して、科学的な事実を提示する構成となっています。
第1章では「人と組織の心理学」を扱います。ここでは例えば、組織内で推奨される前向きな思考や善い行いが、思いがけない負の結果を招く心理メカニズムについて解説しています。常に前向きであることを強要する文化が従業員の精神的な負担を増大させる現象や、他者を助けるという立派な行動をとった直後に、その貢献を理由にして規則を守らなくなるといった気の緩みが生じる現象を取り上げます。従業員の心理は単純な善悪では測れず、状況によって複雑に変化することを読み解きます。
第2章は「採用・リテンション」に関するテーマです。人材を採用し定着させる過程には、多くの思い込みが存在します。採用面接において、面接官は候補者の嘘や誇張をほとんど見抜けていないという研究結果や、候補者の能力を引き出そうとして行う奇抜な質問が、実は企業への志望度を下げる要因になっている事実を紹介します。
また、従業員の自律的なキャリア形成を支援すると、社外へ流出してしまうのではないかという企業の懸念に対し、自律を促すことがむしろ組織への定着を高めるという実証データを示し、適切な定着施策のあり方を論じています。
第3章は「エンゲージメント・心理的安全性」に焦点を当てています。先ほども触れたように、これらの概念が持つ多面性を掘り下げます。仕事の意義と金銭的な報酬のどちらを人は優先するのかという問いに対する調査結果や、他者をサポートする行動が、支援を受ける側に申し訳なさや負担感を感じさせ、かえってモチベーションを低下させてしまう条件について解説します。流行の概念を無批判に導入するのではなく、組織の現状に合わせて機能させるための設計方法を学びます。
第4章の「職場のマネジメント」では、上司と部下の関係性や日常の指導方法に関する研究知見を整理しています。上司と部下の性格が似ている方が業務は円滑に進む一方で、性格が異なる組み合わせの方が新しいアイデアが生まれやすいという配置の考え方を紹介します。また、部下に権限を委譲することの心理的な困難さの背景や、部下の行動の改善を促すための否定的な評価を伝える際に、相手が受け入れやすくなるための条件について、データをもとに解説し、日々のマネジメント業務の質を向上させるヒントを提供します。
第5章は「人事施策」の効果と限界を検証するテーマです。企業は従業員の意欲を高めるために様々な制度を導入しますが、それが意図せぬ結果を生むことがあります。例えば、評価基準やプロセスを透明にして公正な手続きを整備することは、ほとんどの従業員に良い影響を与えますが、不確実な状況を好んで挑戦するタイプの人材にとっては、結果が予測可能になりすぎて意欲を失わせる要因になることを示します。
また、働く時間や場所を自由に選べる自律的な働き方が、成果への責任感を過剰に刺激し、健康を害するほどの長時間労働を自ら選択してしまう危険性についても取り上げます。
第6章は「テクノロジー」と人間の関わりを探ります。AIや人事管理システムが高度に進化する中、人間がそれらの技術とどのように向き合うべきかを考察します。人間は複雑で困難な判断を迫られた際、客観的に見えるAIの提案を無批判に受け入れ、自分自身の判断能力を低下させてしまう心理的傾向があることを指摘します。
さらに、多額の費用を投じて導入した新しいシステムが現場で全く利用されない現象について、操作の簡単さよりも、自分の業務成果に直結するという認識が不足していることが原因であるという技術受容のメカニズムを解説し、ツールの導入を成功させるための条件を提示しています。
明日からの組織マネジメントに向けて
学術研究が明らかにしたこれらの知見は、明日の朝からすぐに職場のすべての問題を解決するような即効性のある対応策ではないかもしれません。ある研究結果を知ったからといって、複雑な人間関係や長年培われた組織文化が劇的に変化するわけではないからです。しかし、学術研究の知識を頭の片隅に置いておくことは、皆さんが自社の状況を冷静に分析し、なぜ今の施策が機能していないのかという問いを立てるための材料となります。
目の前の部下が期待通りに動かない時や、新しい制度が現場から反発を受けた時、個人の能力不足や性格の問題、努力不足といった精神論に原因を求めるのではなく、心理学や組織行動論のメカニズムに照らし合わせて状況を診断することが可能になります。自分が直面している課題が、実は人間の認知の偏りや、組織構造がもたらす必然的な反応であると理解できれば、感情的な対応を避け、次の一手を構想することができます。
皆さんがこれまで現場で培ってきた実践的な知恵は、組織を運営する上でかけがえのない財産です。その実践的な知恵と、世界中の研究者が膨大なデータから導き出した学術的な知見をすり合わせることで、組織マネジメントの能力はさらに一段階上の次元へと引き上げられるはずです。複雑さを増す現代の組織課題に対し、多様な角度から事象を観察し、柔軟に解決策を模索するための思考の基盤として、本書を存分に活用いただけることを願っています。
脚注
[1] 本コラムで引用している論文の情報は『世界の研究者はマネジメントをどう分析しているのか』をご参照ください。
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『組織内の“見えない問題”を言語化する 人事・HRフレームワーク大全』、『イノベーションを生み出すチームの作り方 成功するリーダーが「コンパッション」を取り入れる理由』(ともにすばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。
