2026年3月5日
規則が意味を失うとき:手続きの不公正が生む組織の崩れ

日々の生活や仕事の中で、時折「不公正だ」と感じる瞬間に遭遇します。昇進や評価の結果に対するものかもしれませんし、上司や同僚からの何気ない一言に起因するものかもしれません。理由や形は様々ですが、「不公正」という感覚は、私たちの心に突き刺さります。なぜ私たちは、これほど公正さにこだわり、不公正さに心を乱されるのでしょうか。自分の利益が損なわれたからという理由だけでは説明がつかない複雑な感情が、そこには渦巻いています。
この感覚は、私たちの行動にも関わってきます。仕事への意欲が削がれたり、組織への信頼が揺らいだり、あるいは他者への態度が変わってしまったりすることもあるでしょう。不公正だと感じる経験は、個人の内面にとどまらず、組織全体の空気や人間関係の質をも変えます。
本コラムでは、人が不公正とどのように向き合うのか、その心の動きを探求していきます。ある状況では、不公正さが組織のルールを無力化させてしまう過程を見ていきます。また、ある状況では、個人の尊厳が傷つけられる痛切な体験としての不公正さに光を当てます。視点を変え、客観的には公正な手続きであっても、それを受け入れる側の心の状態によって不公正だと感じられてしまうメカニズムや、不利益を伝える側に立った人間が抱える、一見すると逆説的な心理についても解き明かしていきます。
手続きの不公正は、組織のルールを形骸化させ倫理行動を損なう
組織には、業務の進め方から評価の基準に至るまで、様々なルールが存在します。これらのルールが、組織の活動を円滑にし、秩序を保つための骨格となっていることは言うまでもありません。しかし、そのルールを運用する手続きが公正ではないと感じられたとしたら、人々の心の中では何が起こるのでしょうか。組織のルールと個人の倫理的な行動の間に横たわる心の仕組みを解き明かす試みがあります。
ある研究では、スペインの国立大学に所属する教員を対象とした調査が行われました[1]。この調査の関心は、大学内での意思決定プロセス、例えば予算の配分や人事評価などが、どれだけ公正だと感じられているか(手続き的公正)、その感覚が、教員たちの行動にどのように結びついているのかを明らかにすることでした。教員たちには、手続きの公正さの認識を尋ねる質問に答えてもらいました。
同時に、この調査では「規則の失活」という、少し耳慣れない概念が測定されました。これは、組織の公式なルールが、事実上その意味や力を失っていると従業員が感じる度合いを指します。そして、組織にとって望ましくない行動(例えば、必要以上に休憩を取る、仕事で意図的に手を抜くなど)と、組織にとって望ましい貢献的な行動(例えば、組織のイメージが良くなるように振る舞う、改善のための提案をするなど)の頻度についても回答が求められました。
集められた回答を分析した結果、一つの関係性が見えてきました。意思決定の手続きが不公正だと感じている教員ほど、「規則が失活している」と強く認識しているという関係です。公正さが欠けていると感じる職場では、ルールはもはや信頼できる行動の指針ではなく、建前や飾りであると見なされやすくなるのです。ルールそのものに問題がなくても、その運用が恣意的であったり、一部の人の都合で曲げられたりする現実を目の当たりにすると、人々はルールへの敬意を失っていきます。
この「規則の失活」という認識は、教員たちの行動と深く結びついていました。規則が機能していないと感じる人ほど、組織にとって望ましくない行動を取りやすく、逆に、組織への貢献的な行動は少なくなるという関連が見られました。
このことから、手続きの不公正さが直接的に問題行動を引き起こすというよりも、「手続きが不公正だ」という認識が「どうせこの組織のルールなんて意味がない」という感覚、すなわち規則の失活感を生み出し、その感覚が一種の「言い訳」や行動の「許可証」のように機能して、倫理的な行動の歯止めを緩めてしまう、というプロセスが浮かび上がってきます。
対人関係における不公正は、個人の尊厳を傷つける冒涜行為である
先ほどは、組織のルールが公正に運用されないことが、いかに人々の規範意識を低下させるかを見てきました。しかし、私たちが日々体験する「不公正」は、そうした制度的なものばかりではありません。私たちの心をより直接的に揺さぶるのは、他者との一対一の関わりの中で生まれる不公正さ、すなわち、対人関係における不当な扱いです。ここでは、その対人関係における公正さ、専門的には「相互作用的公正」と呼ばれる概念の議論を紹介します[2]。
この議論の出発点は、組織で働く人々が実際に体験する不公正の多くは、客観的なルールの問題というよりも、他者から受けた軽蔑的な態度、嘘、裏切りといった、生々しい人間関係の出来事として語られるという観察に基づいています。例えば、あるプロダクトマネージャーが「上司は私のことを軽蔑し、公然と嘲笑することに喜びを感じている」と語る時、その苦しみは、単に評価が低いという事実からだけではなく、人格を否定されたという痛切な感情から生じています。
この種の不公正は、個人のアイデンティティ、すなわち「自分とは何者か」という自己意識を脅かす深刻な出来事となり得ます。それは、他者から侵害されてはならない、いわば「神聖な自己」の領域が土足で踏みにじられるような経験です。このような、個人の尊厳を汚す行為は「冒涜行為」と表現され、いくつかの種類に分けて整理されています。
一つ目は、「中傷的な判断」です。これは、事実に基づかない非難や侮辱的なレッテル貼りによって、自己の価値が貶められる経験を指します。例えば、実際には上司の失敗であるにもかかわらず、その責任を不当に押し付けられたり、陰で「扱いにくい人物だ」といった評判を立てられたりするような状況です。こうした行為は、個人の能力や人格に対する一方的な断罪であり、自己評価に深い傷を残します。
二つ目は、「欺瞞」です。嘘や守られない約束によって、他者への信頼が根底から覆される経験がこれにあたります。採用面接で聞いていた話と実際の待遇が全く違っていた、昇進を約束してくれた上司が平気でその言葉を反故にしたといった出来事です。このような経験は、人を信じるという、社会生活の前提を揺るがし、人間不信につながりかねません。
三つ目は、「プライバシーの侵害」です。個人の私的な領域が、本人の許可なく不当に暴かれたり、土足で踏み込まれたりする経験です。個人的な悩みを打ち明けたはずが、いつの間にか職場全体に知れ渡っていた、面接で家族計画といった業務に関係のない、しかし非常にプライベートな質問を執拗にされたといったケースが考えられます。これは、公的な自分と私的な自分の境界線を破壊する行為です。
四つ目は、「無礼」です。これは、軽蔑的・侮辱的な言動によって、個人としての価値を否定される経験を指します。重要な話をしている最中に、相手が電話に出るなどの無配慮な態度。大勢の前で大声で叱責するような虐待的な言動。あるいは、人種や性別に関する差別的な発言。これらはすべて、相手を対等な人間として認めていないというメッセージを突きつける行為です。
これらの「冒涜行為」に共通するのは、それらが他者との比較によって不公正だと判断されるものではないという点です。例えば、ある上司が部下全員に対して、同じように無礼な態度を取ったとします。比較の観点から見れば、全員が「平等に」ひどい扱いを受けているため、誰も不公正を訴えることはできないかもしれません。
しかし、私たちは、たとえ他の人も同じ目に遭っていたとしても、その侮辱的な扱い自体が、人間としての尊厳を踏みにじるものであり、絶対的な意味で「不公正だ」と感じるはずです。対人関係の不公正さは、誰かと比べて損をしたという相対的な感覚ではなく、人として守られるべき一線が越えられたという、絶対的な感覚に根差しているのです。
自己を脅かす結果は、公正な手続きであっても不公正だと感じさせる
これまでは、不公正な手続きや対人関係が、私たちの心にどのような作用を及ぼすかを見てきました。しかし、ここで視点を少し変えてみたいと思います。手続きは誰の目にも公正に見えるのに、それでもなお「不公正だ」と感じてしまうとしたら、そこにはどのような心のメカニズムが働いているのでしょうか。私たちの主観が、客観的な事実をどのように塗り替えてしまうのか。この問いに迫る実験があります[3]。
この実験で探求されたのは、「自己脅威」という概念です。自己脅威とは、自分の能力や価値、すなわち自己概念が揺さぶられたり、否定されたりするような状況で生じる、心理的な脅威の感覚を指します。例えば、自分のパフォーマンスが低いと評価されたり、期待していた結果が得られなかったりすると、私たちは自己脅威を感じます。
このような脅威に晒された時、私たちの心は、傷ついた自己イメージを守るために、無意識のうちに防衛的な反応を取ることがあります。その一つが、失敗や不利益の原因を、自分以外の外部の何かに求めるという心の動きです。
この心の動きと公正さの認識の関係を調べるため、ある大学で実験が行われました。参加した学生たちは、いくつかのチームにランダムに分けられ、チーム対抗でゲームを行いました。ゲームの後、学生たちはチームメイトの貢献度を互いに評価しあうよう指示されます。
ここからがこの実験の核心部分です。実験者は、学生たちに偽物の評価結果をフィードバックしました。一部の学生には「あなたはチームメイトから非常に高く評価されました」と伝え、別の学生には「あなたはあまり高く評価されませんでした」と伝えたのです。この低い評価のフィードバックが、学生たちの心に「自己脅威」を生み出すための仕掛けでした。
その後、学生たちは、このチームメイトからの評価がどのような手続きで決定されたか、その手続きの公正さについてどう感じるかを尋ねられました。実際には、すべての学生が同じ手続き(チームメイトによる評価)を経験しているにもかかわらず、結果は分かれました。チームメイトから低い評価を受け、自己脅威を感じた学生たちほど、評価の手続きを「不公正だ」と認識する傾向が見られたのです。
この結果から浮かび上がってくるのは、私たちの公正さに対する判断が、いかに「結果」に左右されやすいかという事実です。自分にとって好ましくない、自己の価値を脅かすような結果を受け取った時、私たちの心は、その苦痛を和らげるための説明を探し始めます。
その際、最も手近で受け入れやすい説明が、「結果が悪いのは、自分の能力が低いからではなく、そもそも手続きがおかしかったからだ」という責任転嫁です。公正に見える手続きの欠点を探し出し、それを不利益の原因として帰属させることで、傷ついた自尊心を守ろうとする心理的な防衛機制が働いていると考えられます。
この実験では「集団への同一性」、要するに、自分が所属するチームにどれだけ愛着や一体感を感じているかも測定されていました。分析の結果、チームへの一体感が強い学生ほど、たとえ低い評価を受けても、その原因を外部(手続きなど)に求める動きが弱いことがわかりました。自分が価値ある集団の一員であるという感覚が、個人的な不利益という自己脅威に対する緩衝材として機能し、過度な防衛反応を抑えているのかもしれません。
不利益を伝える役は、不公正な手続きだとむしろ罪悪感が和らぐ
私たちは、自分が不公正な扱いの受け手になったり、あるいは他者が不当に扱われるのを目撃したりした時に、心を痛めます。しかし、自分が、不利益な決定を他者に「伝える」という、いわば加害の側に立たされたとしたら、どうなるでしょうか。とりわけ、その決定に至る手続きが不公正であった場合、伝える側の心の中では、一体どのような葛藤や感情が生まれるのでしょうか。これまであまり光が当てられてこなかった「執行者」の心理を探る、二つの実験があります[4]。
これらの実験が焦点を当てたのは、「向社会的アイデンティティ」という自己認識です。これは、「自分は他者を助け、思いやることのできる人間でありたい」という自己イメージを指します。一般的に考えれば、このような「良い人でありたい」という思いが強い人ほど、他者に不利益を伝える際にはより強い罪悪感を覚え、相手に共感的な態度を示すだろうと予想されます。しかし、実験の結果は、この素朴な予想を裏切る、より複雑な心の動きを明らかにしました。
最初の実験は、奨学金の削減を学生に通知するというシナリオで行われました。参加した学生たちは、簡単な単語パズル課題に取り組みました。一部の学生が解くパズルには「助ける」「思いやり」といった他者への配慮を連想させる単語が紛れ込ませてあり、これによって無意識のうちに向社会的アイデンティティを活性化させることが狙いでした。
その後、学生たちは奨学金削減の決定プロセスに関する説明文を読みます。あるグループには、学生委員会の検討を経て教員が承認したという「公正な」手続きであったと説明され、別のグループには、教員が学生委員会の提案を覆し、自分の専門分野を優遇したという「不公正な」手続きであったと説明されました。最後に、参加者は執行者として、奨学金を削減される学生への通知レターを作成するよう求められました。
レター作成後の感情を測定したところ、逆説的な結果が見られました。「良い人でありたい」という思いが活性化されていた参加者に限って、手続きが不公正であった場合の方が、手続きが公正であった場合よりも、罪悪感や動揺といったネガティブな感情が弱かったのです。そして、作成されたレターの内容を分析したところ、同じく、手続きが不公正であった場合の方が、相手への共感の表明が少ないことが確認されました。
この現象を解き明かす鍵は、「認知的不協和」と「責任の所在」にあります。「自分は良い人間だ」という自己認識と、「他者に害をなす行為をしている」という現実の間には、心理的な矛盾(認知的不協和)が生じます。この不快な矛盾を解消するため、心は無意識にその原因を探します。ここで、決定の手続きが「公正」であった場合、執行者は「ルールに従ったまで」と言い訳のしようがなく、行為の責任を自分自身で引き受けざるを得ません。その結果、強い罪悪感が生じ、相手への償いとして共感的な態度を取ろうとします。
ところが、手続きが「不公正」であった場合、事態は一変します。執行者は「こんなひどい決定をしたのは、自分ではなく上層部だ」「手続き自体がおかしいのだから、自分にはどうしようもなかった」と考えることができます。行為の責任を自分以外の外部(この場合は不公正な手続きや意思決定者)に転嫁することができるのです。この責任転嫁によって認知的不協和は解消され、罪悪感は和らぎます。その結果、皮肉なことに、被害者への共感的な配慮もまた減少してしまうと考えられます。
この結果は、人員削減の通告という、より現実的なシナリオを用いた二つ目の実験でも再現されました。向社会的アイデンティティが活性化されたMBAの学生は、解雇の決定プロセスが不公正であった場合の方が、罪悪感が低く、解雇される従業員への補償(健康保険の延長期間)の提案も少なくなるという結果でした。
これらの実験が物語るのは、人の善意や思いやりが、置かれた状況によっては、意図せずして裏目に出てしまう可能性です。不公正な決定の執行という役割を担わされた時、「良い人でありたい」という思いは、自己の正当性を守るために、不公正な手続きを責任転嫁の格好の材料として利用してしまうのかもしれません。
脚注
[1] Zoghbi-Manrique-de-Lara, P. (2010). Do unfair procedures predict employees’ ethical behavior by deactivating formal regulations? Journal of Business Ethics, 94, 411-425.
[2] Bies, R. J. (2001). Interactional (in)justice: The sacred and the profane. In J. Greenberg and R. Cropanzano (Eds.), Advances in Organizational Justice (pp. 89-118). Stanford University Press.
[3] Lilly, J. D., and Wipawayangkool, K. (2017). When fair procedures don’t work: A self-threat model of procedural justice. Current Psychology, 37, 680-691.
[4] Grant, A. M., Molinsky, A., Margolis, J., Kamin, M., and Schiano, W. (2009). The performer’s reactions to procedural injustice: When prosocial identity reduces prosocial behavior. Journal of Applied Social Psychology, 39(2), 319-349.
執筆者
伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『組織内の“見えない問題”を言語化する 人事・HRフレームワーク大全』、『イノベーションを生み出すチームの作り方 成功するリーダーが「コンパッション」を取り入れる理由』(ともにすばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。
