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コラム

キャリアの物語を紡ぎ直す:「働く自分」を再構築するアイデンティティ・ワーク(セミナーレポート)

コラム

ビジネスリサーチラボは、202512月にセミナー「キャリアの物語を紡ぎ直す:『働く自分』を再構築するアイデンティティ・ワーク」を開催しました。

このままでいいのだろうか。今の仕事で、自分の良さが本当に活かせているのか。キャリアを重ねる中で、ふと立ち止まり、このように自問した経験はないでしょうか。私たちは、組織の一員としての役割と、「ありたい自分」との間で、時に葛藤を覚えます。

本セミナーでは、こうしたビジネスパーソンに共通の悩みに、学術研究の知見から光を当てました。その鍵となるのが、自分と向き合い、未来を拓くための考え方、「アイデンティティ・ワーク」です。

アイデンティティ・ワークとは、自分という存在を固定的に捉えるのではなく、経験や環境との関わりを通じて、自分らしさを再発見し、成長させていくための継続的な取り組みを指します。これは特別なことではなく、誰もが日々、無意識に行っている営みです。

本セミナーでは、この営みを意識的に、そして効果的に行うための方法を、具体的な事例と共に検討しました。例えば、過去のキャリアで培った経験やスキルを、現在の仕事で成果につなげるための考え方。あるいは、管理職として求められる役割と、自分自身の価値観を調和させ、納得感のあるリーダーシップを発揮するためのヒントを探ります。

本セミナーで取り上げるのは、華やかな成功事例だけではありません。職を失うといった厳しい逆境の中で、人々がいかに社会から貼られるレッテルと向き合い、「働く自分」としての誇りを保ち続けるのか。また、組織のルールと個人の価値観が衝突した際に、どのように振る舞い、自身の誠実さを守るのか。

こうした多様な事例の検討を通じて、どのような状況下でも自分を見失わず、キャリアの舵を自分で握るための視点について考えました。

※本レポートはセミナーの内容を基に編集・再構成したものです。

はじめに

本当の自分を探す。キャリアを考える際、しばしばこの言葉に導かれます。あたかも自分の中に、発見されるべき固定的な核が存在するかのように。しかし、「自分」が静的な実体ではなく、日々の経験や他者との対話を通じて絶えず変化し、語り直される物語のようなものだとしたら、私たちの悩みの本質はどこにあるのでしょうか。

今の仕事への違和感は、「本当の自分」に合わないからではなく、変化する状況の中で「自分の物語」をうまく更新できずにいるサインなのかもしれません。本講演は、このような新しい視点からキャリアを見つめ直すための考え方、「アイデンティティ・ワーク」を探求します。これは、自分という物語を主体的に紡ぎ直していくための継続的な営みです。学術研究が明らかにした多様な事例を通して、変化の時代をしなやかに生き抜き、納得感のあるキャリアを築くための知恵を学んでいきましょう。

「私」という物語を編み直す

自分とは、何者なのだろうか。この問いに対して、自分の中に揺るぎない「本当の自分」という核のようなものが存在すると考えるかもしれません。しかし、近年の研究では、自己、すなわちアイデンティティは固定的なものではなく、他者や社会との関わりの中で絶えず編み直され、変化し続けるものだと捉えられています。

私たちの自己認識は、出来事や他者との対話を通じて意味づけられ、語られる「物語」のような性質を持っているのです。自己を形成し、維持し、変容させていくこの絶え間ない営みは「アイデンティティ・ワーク」と呼ばれます。アイデンティティ・ワークのプロセスは、決して閉じた個人の内面だけで完結するものではありません。私たちは、社会に流通する様々な言葉や価値観を取り込みながら、自身の経験を解釈し、自己の物語を構築しています。

この点を明らかにした研究の一つに、ある元管理職の男性が記した自伝を丹念に読み解いたものがあります[1]。この研究は、書き手がいかに社会的に利用可能な物語の資源を使い、自身のアイデンティティを築き上げたかを追体験することを目的に行われました。調査の対象となったのは、大手通信機器メーカーで工場労働者から上級管理職へと昇進した人物です。研究者は彼の自伝を精読し、その記述の中から自己形成の過程を分析しました。

自伝の中には、彼のアイデンティティ形成を象徴するエピソードが記されていました。管理職としてのキャリアの途中で入院した彼が、不安がる隣のベッドの患者を一晩かけて励ました時のことです。

夜が明けた頃、その患者から「あなたは、マネジャーですか」と尋ねられます。この問いかけは、彼にとって、自身の内面的な自己認識と、他者の目に映る自分の姿が一致した瞬間でした。自分の振る舞いが「マネジャー」という社会的な役割そのものであると、他者の言葉を通じて客観的に自覚しました。この経験は、後年、執筆という内省的な作業の中で改めて意味づけられ、「私はマネジャーである」という自己認識を強固にする役割を果たしました。

彼の自伝は、「エンジニアにはなりたくなかった」という逆説的な言葉を主題に据えています。当初の希望とは異なる道を進む現実との間に生じた葛藤を、いかに肯定的な自己の物語として統合するかが、彼のアイデンティティ・ワークの核心でした。

分析の結果、彼が物語を紡ぐ上で、社会に流通する文化的な資源を巧みに利用していることが明らかになりました。例えば、少年期にいじめっ子に立ち向かった経験が、職場で理不尽な上司と対立する場面の記述で反響します。彼は幼い頃の「不正に屈しない自己」を、成年後の「責任ある管理者」像に接続することで、時間を通じた自己の一貫性を語っていました。

この物語形成は、彼個人の内面からだけ生まれたのではありません。研究の考察によれば、冒険映画や文学、政治的な言説といった社会に流通する文化資源が、彼の経験を解釈するための枠組みを提供していました。職場の対立は、「暴君と闘う正義の主人公」という、社会的に広く認知された物語の型にはめ込まれていきました。

この事例は、私たちの自己物語が決して閉じたものではなく、社会が提供する役割や物語と対話するプロセスの中に、私たちのアイデンティティが形づくられていくことを示しています。

「働く自分」を再構築する

アイデンティティ・ワークが、自己の物語を社会との関わりの中で編み直す営みであるとすれば、私たちはそれをキャリア形成においてどのように実践できるのでしょうか。ここでは、二つのアプローチを探求します。一つは、自らの過去の経験を現在の自己を支える力として活用すること。もう一つは、組織から与えられた役割と、自分自身の価値観との間で適切なバランスを見出すことです。これらのアプローチは、私たちが「働く自分」をより主体的に再構築していくための手がかりとなります。

第一のアプローチは、過去の経験を現在の自己を形づくるための「資源」として捉え直すことです。過去は過ぎ去った思い出ではなく、現在の自分を豊かにし、未来を切り拓くための創造的な材料となり得ます。

この点に関して、あるグローバル企業のアルムナイのメンバーを対象とした研究が示唆を与えてくれます[2]。この研究は、組織を離れた後も「アルムナイ」としての自己認識を維持している人々が、過去の経験をどのように現在の自己形成に結びつけているのかを明らかにすることを目的としました。調査方法は、強い企業文化で知られる大手消費財メーカーの元従業員たちで構成されるアルムナイに参加する21名へのインタビューです。

分析の結果、彼ら彼女らが過去と現在をつなぐために、四つの異なるアイデンティティ・ワークの方略を使い分けていることが明らかになりました。

一つ目は「ノスタルジア」です。これは、アルムナイのイベントに参加し、過去の「良き時代」の雰囲気や、生き生きと働いていた自分を再体験する行為を指します。思い出話に浸るのではなく、実際に集い交流するという実践的な再演を通じて、かつての創造的でエネルギッシュな自己像を現在の自分に再び取り込んでいました。

二つ目は「再生産」です。それは、過去に在籍した組織で習得した仕事の流儀や価値観を、今の仕事の場で意識的に実践し、蘇らせる行動です。その根底には、過去に培った規範やスキルが現在も有効であり、成果につながるという確信がありました。

三つ目は「正当化」です。これは、今の環境で受けるポジティブな評価を使い、過去の経験が持つ力を確かめ、自らの物語を強くする営みです。他者からの承認によって、過去の自分のあり方が今も価値を持つことを確認し、自己の一貫性と肯定感を保っていました。

四つ目は「組合せ」です。以前の価値観を全て肯定したり否定したりせず、今の組織文化と冷静に比べ、自身のアレンジで折衷案を構築する、より円熟した手法です。過去の経験を選択的に継承し、現在の環境に適応させていくことで、職業人としての自己を更新し続けていました。

この研究の考察によれば、アルムナイの人々はこれら四つの方略を使い分け、過去と現在の自分をつなぐ物語を紡ぎ続けています。過去との対話は、現在の自己を豊かにし、未来を切り拓く実践となり得るのです。

第二のアプローチは、「役割としての自分」と「ありのままの自分」との間で、どのように折り合いをつけるかという課題に関わります。特に聖職者のように、公的な役割が個人の生活全体に深く浸透する職業では、このバランスを取ることが切実な課題となります。米国聖公会の司祭を対象とした調査が、強い職業的アイデンティティを求められる中で、彼ら彼女らはいかに最良の均衡点を探し当てようと試みるのかを解明しました[3]

この調査により、多くの司祭は役割と自己の狭間で三種の典型的な葛藤を体験していると判明しました。一つ目は、役割に自己の全てが飲み込まれてしまう「過同一化」。次に、仕事の役割が私生活の領域にまで入り込んでくる「アイデンティティ侵入」。そして三つ目が、素の自分を開示できないと感じる「透明性の欠如」となります。

研究の結果、司祭たちはこうした緊張に対し、多様な「戦術」を意識的に使い分けていることがわかりました。それらは大きく二つの方向に分類できます。

一つは、「差異化戦術」と称される、役割と自己を意識して分ける試みです。具体的には、場面に応じて役割を意識的に演じ分けたり、仕事のオンとオフを明確に切り替えたりします。趣味など、司祭という役割とは全く別の役割に没頭することも有効な戦術でした。

もう一つは、「統合戦術」と称される、役割と自己をあえて一つにする試みです。叙任を機に自らの存在が変わったと受け入れたり、過去の職歴や個人的な経験を司牧の場で積極的に活かしたりすることで、「自分らしくあること」が良い司祭であるための条件だと再定義していました。

この研究の興味深い考察は、これらの戦術がキャリアの進行と共に変化していくという点です。最適なバランスとは固定された一点ではなく、状況に応じて「切り離す」戦術と「重ね合わせる」戦術を使い分けながら、常に探し求め続ける流動的な状態です。このことは、ビジネスパーソンにとっても、組織で求められる役割と自身の価値観との間で、柔軟にバランスを取り続けることの重要性を示唆しています。

これらの研究知見を、自身のキャリアを考える上でどう活かせば良いのでしょうか。初めに、過去の経験を資源として活かすアプローチについてです。一度時間をとり、ご自身のキャリアの棚卸しをしてみてはいかがでしょうか。「これまでの仕事で、最も充実していたのはいつ、どのような仕事だったか」「その成功体験の中で、発揮されていた自身の強みや価値観は何だったか」を自問してみてください。

その上で、アルムナイの研究が示すように、その強みや仕事の進め方を、現在の職場で意識的に「再生産」できないか検討してみましょう。あるいは、現在の他者からの評価を、過去の経験の価値を「正当化」するものとして捉え直すことで、自己肯定感を高めることもできます。

続いて、役割と自己のバランスを取るアプローチです。聖職者の研究は、現在の仕事で感じているかもしれない息苦しさの原因を探るヒントを与えてくれます。「今の役割を演じる上で、自分らしさを抑えていると感じるのはどんな時か」と考えてみることで、緊張の正体が見えてくるかもしれません。

その上で、意識的に仕事のスイッチをオフにする時間を作る(差異化)、あるいは、自身の趣味やユニークな経験をチーム内のコミュニケーションや新しい企画に活かす(統合)など、日々の生活の中で実践できる小さな一歩を踏み出してみましょう。

逆境や葛藤を乗り越える

私たちのキャリアは、常に順風満帆とは限りません。時には予期せぬ困難や脅威に直面し、キャリアの行き詰まりを感じることもあるでしょう。そうした逆境は、通常、一刻も早く取り除きたい「障害物」と見なされます。

しかし、アイデンティティ・ワークの観点からは、その見方を変えることができます。困難や脅威は、内なる強さを引き出し、本当に大切な価値観を再発見させ、「新しい自分」を形作るきっかけにもなり得ます。脅威は、望ましい自己へと向かう創造的なプロセスの出発点として捉え直すことが可能です。ここでは、困難な状況の中で人々がいかに粘り強く、創造的に自己の物語を維持し、再構築していくかを探ります。

この点を深く理解するために、英国の高齢失業者を対象とした研究を見ていきましょう[4]。この研究は、困難な状況の中で人々がいかに「自分は働く人間である」という感覚を保ち続けるのか、その奮闘を描き出すことを目的としていました。調査は、50歳以上で失業状態にある66名を対象に、グループでの話し合いを通じて彼ら彼女らの経験を聴き取るという手法で行われました。

分析により、彼ら彼女らが労働者としての自己認識を保つために実践する、三つの特徴的な営みが明らかになりました。

第一の実践は、「課されたアイデンティティ」との交渉です。参加者は、就労支援の担当者などから「もう年だから」「病気だから」といった言葉を投げかけられます。ここでは「年齢」や「障害」が、働く能力と両立しない固定的な属性として押し付けられます。これに対し、当事者たちは巧みに抵抗していました。例えば、自身の障害を永続的な本質ではなく「一時的な状態」として語り直します。社会から貼られた否定的なラベルをそのまま受け入れるのではなく、その意味を解釈し直し、自己の物語から引き剥がそうと交渉を続けていました。

第二の実践は、「働くアイデンティティの創出」です。賃金を得る仕事に就いていなくても、「自分は社会の役に立つ、能動的な存在だ」という自己像を積極的に創り出そうとします。毎朝決まった時間に起き、勉強に励み、ボランティア活動に参加する。こうした日々の規律ある活動を通じて、「雇われてはいないが、自分は働いている」という感覚を維持していました。過去の職業人としての経歴と現在の活動を結びつけ、「働く人」としての自己の物語を延長させる試みです。

第三の実践は、「望ましくない働くアイデンティティの拒否」です。支援機関から、過去の経歴とは無関係な低賃金の仕事を紹介されることがあります。長年かけて築き上げてきた専門性や誇りを無視されるような提案に対し、彼ら彼女らは反発します。これはただの選り好みではなく、自身の人生の物語との一貫性を損ない、自尊心を傷つけるような就労像を拒否する、アイデンティティを守るための抵抗です。

この研究の考察が示すのは、失業という状態がアイデンティティの単純な喪失を意味するわけではないという事実です。逆境の中にあって、人々は過去を資源とし、課されるラベルと交渉し、日々の実践を通じて、懸命に「働く自己」の物語を紡ぎ続けようとします。その営みは、人間の尊厳をかけたアイデンティティ・ワークなのです。

次に、個人の内的な葛藤が行動へと転化するプロセスを、職場における「勇気」という現象から探ります。個人の価値観が組織の規範や権力と衝突したとき、人が自らの価値観に忠実であろうとする行為、すなわち「勇気」は、自己の統合にどのような働きをするのでしょうか。

ある研究は、「職場での勇気」を、アイデンティティを作り、保ち、修復するための実践、すなわちアイデンティティ・ワークの一環として捉え直そうと試みました[5]。調査方法は、社会人学生から集めた89件の「勇気ある行動」に関する体験談を分析するというものです。ここで言う勇気は、「道徳的に価値ある目標のため、リスクや脅威を分かった上で、意図してアクションを起こすこと」と定義されます。

分析の結果、勇気が発揮される物語の核心には、ほとんどの場合、個人が大切にする複数のアイデンティティ間の「緊張」が存在することがわかりました。例えば、個人の倫理観(誠実な自分)と、不正な指示に従うべきだという組織からの圧力(従業員としての役割)との間の葛藤です。これらの緊張は当事者に大きな不安をもたらし、勇気ある行動とは、この緊張を乗り越え、調停しようとする試みでした。

勇気ある行動が展開する物語には、大きく分けて五つの異なるストーリーラインが見出されました。

最も頻出したのは「抵抗」の物語です。上位の権力を持つ者やマジョリティに、自身の雇用が危ぶまれるリスクを負ってでも、「道理を貫く」べく異議を唱えるというものです。その背後には、公正さや誠実さなどの、自分が信奉する理念を護りたいという強いモチベーションが存在していました。

次に頻出したのは「反応」の物語となります。自身や他者が起こした問題や危機に際し、正直さや他者扶助などのルールに則って、すぐさま対応するアクションです。

三つ目は「創造」の物語です。イノベーションや起業のようなハイリスクな好機をあえて掴み、今までにない新たな自己認識を自力で築き上げようと試みる挑戦的なものです。

四つ目は「耐久」の物語です。変えられない厳しい状況下で、価値ある目標のため、自身を犠牲にしつつも、辛抱強く持ちこたえようとするものです。

最後に、これらとは対照的な「勇気なし」の物語も存在しました。行動を回避してしまった後悔の語りですが、そこでは「自分は臆病者ではない」と語ることで、望ましくない自己像から距離を置こうとするアイデンティティ・ワークが見られました。

この研究の考察によれば、勇気という行為は、私たちの内なるアイデンティティを蒸留するプロセスです。複数のアイデンティティ間の緊張は、私たちにとって本当に大切なものは何かを浮き彫りにします。そして、勇気ある行動を通じて、どの価値を優先し、どの境界線を守るのかを自ら決定することで、ばらばらになりかけていた自己を再び一つに統合していくのです。その結果、人は自己に対する誠実さや自信、心の安らぎを取り戻します。勇気とは、葛藤を調停し、より調和のとれた自己へと向かうための営みであると言えます。

もし今、キャリア上の困難に直面しているのなら、これらの研究は行動のヒントを与えてくれます。例えば、他者から望ましくない評価をされていると感じるなら、高齢失業者の研究を参考に、そのレッテルを鵜呑みにせず、自分なりに意味を解釈し直す「交渉」を試みてみましょう。「考え方が古い」という評価を、「その分野の歴史を知る貴重な存在」と捉え直すことはできないでしょうか。あるいは、本業がうまくいかない時期だからこそ、資格の勉強や地域活動など、別の形で「働く自分」の感覚を維持する「創出」の活動を始めるのも一つの手段です。

また、組織の論理と自身の価値観が衝突し、葛藤を覚える場面は誰にでもあります。「勇気」の研究は、そうした緊張が、自分にとって本当に大切なものは何かを明らかにする機会だと教えてくれます。自身の経験を振り返り、「誠実な自分でいるために、譲れない一線はどこか」を考えてみてください。大きな「抵抗」は難しくても、まずは会議の場で小さな疑問を呈してみる、自分のミスを正直に認めて対応する「反応」を示すといったことから始めてみましょう。そうした小さな行動の積み重ねが、より統合された自分へと向かう力強い一歩となります。

おわりに

本講演では、学術的な研究知見をもとに、「アイデンティティ・ワーク」という概念を探求してきました。一連の事例を通して見えてきたのは、私たちの自己、すなわち「自分という存在」は、固定された不変のものではなく、経験や他者との関わりの中で常に書き換えられていく物語であるという事実です。

この視点に立つとき、キャリアにおける様々な出来事の意味合いも変わってきます。過去の経験は、現在の自分を形づくり、未来を切り拓くための創造的な資源となります。また、キャリアの行き詰まりや葛藤といった逆境は、乗り越えるべき障害であると同時に、自分にとって本当に大切な価値観を再発見し、より強くしなやかな自己を再構築するためのきっかけにもなり得ます。

アイデンティティ・ワークとは、特別な誰かのものではなく、私たち誰もが日々、意識的あるいは無意識的に行っている営みです。本講演が、皆さんにとって、自分自身のキャリアという物語の主人公として、その物語をより主体的に豊かに紡ぎ直していくための一助となれば嬉しく思います。

Q&A

Q:個人の主体的なキャリア形成を促すアイデンティティ・ワークを推奨すると、会社への帰属意識が薄れてしまうのではないかと心配です。個人の自律と、組織の求心力をどのように両立させればよいのでしょうか。

アイデンティティ・ワークは組織より個人に軸足を置く概念であり、その懸念は一理あります。自律した個人になることは、人生の物語を実現できる場所を自ら選び取ることであり、当然ながら組織を選定するようになります。

これに対して組織がすべきことは一つあります。「ここにいれば物語がより豊かになる」と示し続けることです。一度示せば終わりではなく、提示し続ける必要があります。

具体的には、多様なキャリアパスの提示や越境学習の機会提供などが挙げられます。これらを通じて「会社を利用して自己実現してよい」と発信しましょう。逆説的ですが、そうすることで主体的に物語を紡ぐ優秀な人材ほど、「ここに留まることがメリットになる」と感じ、定着意欲が高まるでしょう。

Q:部下の自己認識を深めるために、上司はどのように関わればよいのでしょうか。また、上司は部下のアイデンティティ・ワークの支援者であるべきだとは思いますが、心理的な領域にどこまで踏み込んでよいか迷ってしまいます。

上司の内面への関与範囲という問いですね。上司はカウンセラーになる必要はありません。心理的な深層に踏み込み、改善責任まで持つのは役割を超え、実務的にも困難です。

上司の役割は「鏡」にたとえることができます。「仕事で何を感じたか」「今後どうありたいか」といった問いかけを行い、部下の語りを否定せず、承認します。

人は他者がいると物語を語りやすくなります。上司はその「場」を提供することが求められます。個人の深い悩みを背負い込む必要はありません。あくまで業務経験と本人の価値観を連結させるサポートを行い、対話を通じて部下の気づきを促す関わり方が得策でしょう。

Q:「過同一化」の問題は、多忙を極めるプレイングマネージャーにとって深刻です。管理職が役割から自分を切り離す「差異化」の戦術を使い、自分自身を取り戻すためには、組織としてどのような仕組みが必要だと思いますか。

役割に飲み込まれる「過同一化」にある中間管理職を救うには、組織として役割を降りる「差異化」の瞬間を意図的に作ることが重要です。基礎的には、時間外連絡の制限や休暇取得など、物理的に役割から離れる時間の徹底が必要です。

加えて、精神的に降りるための「弱音を吐ける場」が鍵となります。管理職の「強くあるべき」という鎧を脱げる場所です。具体的には、同じ悩みの管理職同士の対話や、利害関係のないメンター制度などが考えられます。仮面を外し素の言葉を出せる機会を組織的に提供することが、有効なアプローチになるでしょう。

Q:管理職になりたくないという若手や中堅が増えています。その価値観を尊重しつつ、リーダーという役割をポジティブなアイデンティティとして捉え直してもらうにはどうすればいいでしょうか。

「管理職は罰ゲーム」というのも一つの物語であり、職場で共有された認識です。これが優勢な限り、管理職は重圧に耐えるだけの体験と捉えられてしまいます。必要なのは、この物語を書き換える支援です。大変な側面だけでなく、影響力の拡大や他者支援による成長といった、ポジティブなアイデンティティに結びつく物語へ転換するのです。

言葉での説得は難しいため、体験やモデルが必要です。自分らしいリーダーシップを発揮するロールモデルとの対話や、小さなプロジェクトリーダー経験などが有効です。「自分の価値観とリーダーの役割は矛盾しない」と気づくきっかけを作り、彼ら彼女らの物語の中にリーダーという要素を接合していくアプローチがよいでしょう。

Q:人事担当者として雑多な業務に追われ、何でも屋になりやすく、専門性を感じにくいと悩んでいます。組織を支える者としての誇りと、専門家としてのアイデンティティを両立させるために、どのようなマインドセットを持つとよいでしょうか。

人事の仕事は多岐にわたり、「何でも屋」と感じられる事実はあるでしょう。しかし、その事実をどう解釈し物語として書き換えるかは、自身で決められます。例えば「雑用をしている」ではなく、「組織の課題と解決をつなぐハブになっている」と捉え直せないでしょうか。個々の業務を点で見ず、組織全体への貢献や従業員体験向上への寄与という視点で見るのです。

一見雑多な業務も「組織の課題と皆の幸せをつなぐ重要な役割」と再定義できます。そうすれば、単なる何でも屋ではなく、組織開発や従業員体験のプロフェッショナルとしてのアイデンティティを強化し、誇りを持って働けるようになるはずです。

脚注

[1] Watson, T. J. (2009). Narrative, life story and manager identity: A case study in autobiographical identity work. Human Relations, 62(3), 425-452.

[2] Bardon, T., Josserand, E., and Villeseche, F. (2015). Beyond nostalgia: Identity work in corporate alumni networks. Human Relations, 68(4), 583-606.

[3] Kreiner, G. E., Hollensbe, E. C., and Sheep, M. L. (2006). Where is the “me” among the “we”? Identity work and the search for optimal balance. Academy of Management Journal, 49(5), 1031-1057.

[4] Riach, K., and Loretto, W. (2009). Identity work and the ‘unemployed’ worker: Age, disability and the lived experience of the older unemployed. Work, Employment and Society, 23(1), 102-119.

[5] Koerner, M. M. (2014). Courage as identity work: Accounts of workplace courage. Academy of Management Journal, 57(1), 63-93.


登壇者

伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『組織内の“見えない問題”を言語化する 人事・HRフレームワーク大全』、『イノベーションを生み出すチームの作り方 成功するリーダーが「コンパッション」を取り入れる理由』(ともにすばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。

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