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心理的契約:見えない約束の力

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近年、企業と従業員の関係は大きな変化を遂げています。かつては長期的な雇用保障と忠誠心の交換が前提とされていましたが、グローバル化や組織の再編が常態化するなかで、その均衡は崩れつつあります。

こうした環境変化の中で注目されているのが「心理的契約」という概念です。心理的契約とは、契約書には明記されないものの、雇用主と従業員が互いに期待している暗黙の約束や義務を指します。

本コラムでは、心理的契約に関する代表的な研究成果を取り上げながら、不履行と信頼の関係、義務認識の変化、契約内容の可視化、公正性や透明性の役割といったテーマを順に探求していきます。こうした視点を通じて、現代のマネジメントにおける実践的な示唆を明らかにしていきます。

心理的契約とその不履行

心理的契約は、たとえば、従業員は「努力すれば成長機会が与えられる」と感じ、企業は「従業員は誠実に貢献する」と信じている、といった相互の認識です[1]。この見えない契約は、信頼の形成や組織への貢献意欲に直結するため、多くの研究が行われてきました。

心理的契約は書面として存在しないものの、日々のコミュニケーションや組織文化、評価制度の運用といった要素の積み重ねから形づくられます。そのため、当事者間で意図せずズレが生じやすく、本人が自覚しないまま期待を膨らませてしまうことも少なくありません。

逆に、心理的契約の不履行とは、約束された報酬や待遇が守られなかったと感じることです。たとえば、上司から「主体性を尊重する」と言われて入社したのに、実際には細部にまで干渉され裁量がほとんど与えられない場合などが典型例です。

こうした感じ方が重要なのは、客観的に裏切りがあったかどうかではなく、従業員が主観的に期待と現実のギャップをどう解釈するかが、モチベーションや離職意向に強く影響するためです。心理的契約が損なわれると、組織への信頼は急速に低下し、感情的な疲弊や「どうせ期待しても無駄だ」という諦めを生むことが研究でも示されています。

心理的契約が注目されてきた背景には、組織のフラット化や雇用の流動化が進み、形式的な契約だけでは働き手の期待や動機づけを説明しきれなくなったことがあります。加えて、従業員エンゲージメントやウェルビーイングが組織成果に直結するという研究が増え、個人が抱く「暗黙の約束」を理解・管理する重要性が高まったことが考えられます。

特に近年は、キャリアの自律が求められる一方で、企業側の発信する価値観やビジョンが従業員の期待を左右しやすくなっています。言い換えれば、心理的契約はこれまで以上に、組織の誠実さやコミュニケーションの質が問われる時代に入ったと言えるでしょう。

信頼が不履行の影響を和らげる仕組み

前章では定義を説明しましたが、本章以降は関連する研究を取り上げていきます。最初に紹介するのは、心理的契約の不履行が信頼に及ぼす影響を明らかにした研究です[2]。この研究は、米国の新入社員を対象に行われ、入社後の数年間における信頼と心理的契約不履行の関係を調査しました。

研究の結果、心理的契約不履行は従業員のパフォーマンス、組織への貢献行動、離職意図に対して一貫して負の影響を与えることが示されました。興味深いのは、この影響が単なる「期待が裏切られた」という感情以上に、信頼の喪失によってこれらへの負の影響が強化されていた点です。

また、入社時に高い信頼を持っていた従業員は、不履行が発生してもその影響を比較的弱く受け止める傾向があり、一方で入社時の信頼が低い従業員は強い否定的解釈を行いやすく、信頼低下も顕著でした。つまり、信頼は心理的契約不履行に対する「クッション」として機能していたのです。

この知見には実践的な含意があります。従業員が契約不履行を経験することは、組織再編や外部環境変化のなかで避けがたい場面もあります。

しかし、事前に強固な信頼関係が築かれていれば、その影響を和らげ、従業員が冷静に状況を解釈できる可能性が高まります。たとえば、信頼があれば「一時的な事情によるものだ」と理解されやすく、逆に信頼が乏しいと「会社は約束を守らない」という認識につながりやすいと考えられます。

マネジメントにおいては、この研究の成果を次のように応用できます。第一に、新入社員との早期の信頼構築が重要である点です。入社時の体験やコミュニケーションは、後の心理的契約の不履行をどう解釈するかに長期的影響を与えるため、上司や人事担当者が誠実で一貫した対応をとることは大きな意味を持ちます。

第二に、変革や調整を行う際には、従業員の信頼を維持する工夫が有用です。たとえば、背景説明や意思決定プロセスの透明性を高めることで「裏切られた」と感じるリスクを和らげられます。第三に、心理的契約の不履行が起きた場合でも、迅速かつ誠意ある対応をとることで、信頼の完全な失墜を回避しやすくなります。

雇用初期に変化する従業員と企業の義務認識

前章では、信頼関係が心理的契約の不履行をどのように緩和するかを確認しました。本章ではさらに踏み込み、雇用初期における従業員と企業の義務認識に焦点を当てて、それがどのように変化するのかを検討した研究を紹介します[3]

この研究は、米国のビジネススクール卒業生を対象とした縦断調査によって行われました。卒業直後に企業へ就職した人々に対し、入社時と2年後の2回にわたり、企業と従業員がお互いにどのような義務を負っていると認識しているかを主観的な評価で調査しました。

研究の結果、入社から数年経つと、従業員は「自分が会社のためにすべきこと」は減ったと感じる一方で、「会社が自分のためにしてくれるべきこと」は増えたと感じる傾向が見られました。具体的には、従業員側の「残業や自主的な貢献」といった行動は時間とともに弱まりました。

逆に企業側に対しては「昇進や高い給与、キャリア開発の機会」を期待する度合いが強まっていました。また、企業が約束を果たさなかったと感じた場合、従業員は忠誠心や自主的行動といった長期的な信頼関係を基盤とする義務を大きく低下させることが明らかになりました。

この知見は、実務において重要な含意を持ちます。雇用初期に形成される「義務のバランス」は固定的ではなく、経験や企業の対応によって容易に変化するため、企業は従業員の期待値を把握し、誠実な対応を積み重ねることが望ましい対応といえるでしょう。

特に、企業が義務を果たさなかったと従業員に受け止められた場合、経済的な取引条件以上に信頼関係そのものが損なわれ、修復が難しくなる可能性があります。これは単なる給与や昇進の問題ではなく、「この会社と長期的に関わりたい」という感情的基盤を失わせる点で深刻です。

マネジメントへの応用としては、第一に採用段階からの透明性が挙げられます。昇進スピードや教育機会について現実的な見通しを示すことで、後の失望を減らすことができます。

第二に、入社後の数年間は義務認識が変化しやすいため、定期的なコミュニケーションを通じて従業員の期待や不満を把握することが役立ちます。第三に、契約不履行と感じられる状況が避けられない場合でも、理由や背景を、誠意をもって説明することで、関係的義務の崩壊を最小限に抑えることが可能です。

心理的契約の取引的要素と関係的要素

前章では、雇用初期における従業員と企業の義務認識がどのように変化するかを見てきました。本章では、その延長線上として、心理的契約の「内容」に焦点をあて、企業と従業員が互いにどのような期待を抱いているのかを明らかにした研究を取り上げます[4]

この研究は、英国の複数の組織に所属する従業員と管理職を対象に行われ、心理的契約の内容を網羅的に把握することを目的としたものです。この研究では、従業員と企業の双方が互いに何を期待しているのかを抽出し、その項目を整理する方法がとられました。

研究の結果、心理的契約の内容は大きく二つに分類できることが明らかになりました。

  1. 取引的要素:給与や昇進機会など短期的で明確な交換条件に関わるもの
  2. 関係的要素:長期的な雇用の安定や誠実な対応といった、信頼や感情に基づく期待を含む

さらに、従業員側は企業から「公平な評価」「学習や成長の機会」を強く求める一方、企業側は従業員に対して「柔軟な働き方への適応」「主体的な貢献姿勢」を期待していることが示されました。これらは必ずしも契約書に記されるものではなく、日常のやり取りや組織文化を通じて形作られる点に特徴があります。

この知見は実務にとって有用です。心理的契約の内容は多様であり、その全体像を把握することによって、従業員の不満や誤解を未然に防ぐことが可能になります。

例えば、従業員が「キャリア形成の機会」を当然のように期待している一方で、企業がその点を十分に認識していなければ、不履行と受け止められやすく、信頼の低下を招く恐れがあります。逆に、企業側の期待を従業員が知らない場合、上司からの評価に「なぜ努力が伝わらないのか」といった齟齬が生じやすくなります。

マネジメントに応用するならば、第一に心理的契約の内容を明文化せずとも可視化する工夫が効果的です。例えば、定期的な面談で「会社が期待していること」と「従業員が求めていること」を相互に確認する場を設けることは役立ちます。

第二に、取引的要素と関係的要素のバランスを意識することが重要です。報酬や昇進といった条件だけでなく、成長機会や公平性といった側面を軽視しないことが、長期的な信頼関係を築く基盤になります。第三に、組織変化の局面では、従業員が心理的契約のどの要素を重視しているのかを把握し、その部分を丁寧に扱うことで不信感を和らげることが可能です。

信頼と公正からみる雇用関係

前章では心理的契約の変化と組織における人材マネジメントの課題について触れました。本章ではその流れを踏まえ、雇用関係を分析する枠組みとして心理的契約がどのように有効であるかを検討した研究を紹介します[5]

研究は、イギリスを中心に、異なる職場環境や国際比較を通じて、従業員と企業の双方の認識を調査することで進められました。研究結果は、集団的な労使関係が弱まり、労働環境が流動的で不確実性を増す現代において、この概念が有用であることを示しています。

具体的には、「会社が約束したことを守るかどうか」が、従業員の態度や行動にどんな影響を与えるのかを分析したものです。特に、会社が従業員を公平に扱っていると感じられるか、会社を信頼できるかといった点が、その影響を大きく左右することが明らかになっています。

たとえば、従業員が「約束が守られていない」と感じると、退職意向やモチベーション低下につながる一方、公平に扱われ信頼が築かれていると感じれば、組織へのコミットメントや主体的な行動が促進されるのです。

この研究から得られる実践的な含意として、雇用関係を一律の規則で管理するだけでは十分ではなく、個別の「取引」や期待の調整を柔軟に行うことが重要だと示唆されています。特に、近年増えている「アイ・ディールズ(i-deals)」と呼ばれる個別交渉型の取り決めは、従業員の多様なニーズに応える点で有効です。

一方で、不公平感やえこひいきの印象を与えるリスクも伴います。そのため、組織全体で透明性を確保しつつ、信頼関係を基盤とした調整が効果的と考えられます。

マネジメントへの応用としては、まず「心理的契約の状態」を定期的に把握する仕組みを導入することが有用です。これは、従業員がどの程度「約束が守られている」と感じているか、公平性をどのように認識しているかを確認する取り組みです。

定期的なフィードバック面談やアンケートを通じて、この認識を把握することは、契約違反による不満の蓄積を防ぐ効果があります。また、管理職が日常的に信頼を築くコミュニケーションを行うことも不可欠です。たとえば柔軟な働き方の許可や業務上の裁量の付与は、単なる制度以上に「組織が自分を信頼している」というメッセージとなり、相互信頼を強化します。

さらに、従業員と組織双方の期待を「交渉プロセス」として位置づけることも効果的です。従来のように人事部門が一方的に制度を設計するのではなく、現場の管理職や従業員と共に協議を行うことで、心理的契約が一方的に破られるリスクを軽減できます。結果として、従業員のエンゲージメント向上と離職率の低下が期待され、組織全体の持続的な競争優位にもつながるでしょう。

おわりに

これまで見てきた研究群は、心理的契約が単なる理論概念にとどまらず、実務に深い示唆を与えるものであることを示していました。信頼の維持が契約不履行の影響を和らげ、雇用初期の経験が義務認識を変化させ、心理的契約の内容を明確に理解することが誤解を防ぐ手がかりとなることが明らかになっています。

また、公正さと透明性は雇用関係を持続的に強化する要因である一方、心理的契約という概念そのものの限界も指摘されました。これらを踏まえると、心理的契約を固定的な枠組みと捉えるのではなく、状況や文化、従業員の認識によって変動する動的なプロセスとして扱うことが望ましいでしょう。

マネジメントにとって重要なのは、制度設計における公平性だけでなく、日常的な対話を通じて期待のすり合わせを継続することです。最終的に、心理的契約の理解と活用は、従業員のエンゲージメントを高め、組織の持続的な成果につながる実践的な資源となるでしょう。

脚注

[1] Rousseau, D. M. (1989). Psychological and implied contracts in organizations. Employee responsibilities and rights journal, 2(2), 121-139.

[2] Guest, D. E. (2004). The psychology of the employment relationship: An analysis based on the psychological contract. Applied psychology, 53(4), 541-555.

[3] Robinson, S. L., Kraatz, M. S., & Rousseau, D. M. (1994). Changing obligations and the psychological contract: A longitudinal study. Academy of management Journal, 37(1), 137-152.

[4] Herriot, P., Manning, W. E. G., & Kidd, J. M. (1997). The content of the psychological contract. British Journal of management, 8(2), 151-162.

[5] Guest, D. E. (2004). The psychology of the employment relationship: An analysis based on the psychological contract. Applied psychology, 53(4), 541-555.


執筆者

樋口 知比呂 株式会社ビジネスリサーチラボ コンサルティングフェロー
早稲田大学政治経済学部卒業、カリフォルニア州立大学MBA修了、UCLA HR Certificate取得、立命館大学大学院博士課程修了。博士(人間科学)。国家資格キャリアコンサルタント。ビジネスの第一線で30年間、組織と人に関する実務経験、専門知識で、経営理論を実践してきた人事のプロフェッショナル。通信会社で人事担当者としての経験を積み、その後、コンサルティングファームで人事コンサルタントやシニアマネージャーを務め、さらに銀行で人事部長などの役職を歴任した後、現在はFWD生命にて執行役員兼CHROを務める。ビジネスと学術研究をつなぐ架け橋となることを目指し、実践で役立つアプローチを探求している。

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