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コラム

経営の見えざる資産:各国の人的資本開示に見る文化と経済の影響

コラム

人的資本とは、従業員が持つ知識、技能、経験、創造性などの総体を指し、企業の無形資産として価値を持ちます。人的資本は従来の会計システムでは適切に評価・計上されにくく、投資家やステークホルダーが企業価値を把握する上での情報格差を生じさせています。

この課題に対応するため、世界各国の企業は年次報告書などを通じて自主的に人的資本情報の開示を行うようになっています。ところが、その開示内容や詳細度は国や地域によって異なります。企業の規模、業種、所在国の経済発展段階、文化的背景などの要因によって、人的資本情報の開示には多様なパターンが存在します。

本コラムでは、ポーランドとドイツ、バングラデシュ、マレーシア、スリランカなど、様々な国々の企業における人的資本開示の実態について検討します。各国特有の開示傾向、そして開示内容に見られる文化的差異など、多角的な視点から人的資本開示の現状を紐解いていきます。

人的資本の開示は企業規模や経済成熟度で異なる

人的資本情報の開示状況は、国や企業によって異なります。この差異がどのような要因によって生じるのかを明らかにするため、ポーランドとドイツの上場企業を対象とした調査が行われました[1]。この調査では両国それぞれの主要指数に含まれる30社ずつ、計60社の年次報告書を分析し、人的資本開示の範囲や質、その決定要因を検証しています。

ポーランドは中央計画経済から市場経済へ移行中の国である一方、ドイツは長い市場経済の歴史を持つ先進国です。このように経済発展の段階が異なる二国間の比較を通じて、人的資本開示における差異が浮かび上がってきました。

調査では、人的資本開示を評価するための指標が開発されました。この指標は「従業員情報(福利厚生、雇用構造など)」「内部コミュニケーション(労働組合、満足度調査など)」「従業員開発方針(人材育成プログラム、インセンティブ計画など)」の3つのカテゴリーに分類され、各項目について情報の詳細度がスコア化されました。

分析結果によれば、ドイツ企業はポーランド企業と比較して全体的に人的資本情報の開示水準が高いことが判明しました。特に「従業員満足度調査」や「人材育成プログラム」といった項目では、ドイツ企業の開示が顕著に高い値を示しました。これは経済の成熟度が高い国ほど、人的資本の価値認識が進み、その開示も充実することを示唆しています。

両国で共通して見られた傾向もありました。例えば「雇用構造」に関する情報はほぼすべての企業で開示されていた一方、「参加型イニシアティブ」や「自主休暇プログラム」に関する情報開示は極めて少ないということです。基本的な従業員数や構成といった情報は積極的に開示するものの、より詳細な制度や取り組みについては消極的である現状を表しています。

業種別に分析すると、国ごとに異なるパターンが観察されました。ドイツでは製造業とサービス業が最も高い開示水準を示したのに対し、ポーランドではエネルギー・鉱業業界の開示が最も充実しており、サービス業界は最も低い水準でした。各国の産業構造や歴史的背景が人的資本開示にも反映されていることを物語っています。

企業規模と開示水準の関係も表れました。両国とも時価総額や従業員数が大きい企業ほど人的資本開示が充実しており、特にドイツでは企業規模と開示水準の間に相関関係が見られました。大企業ほど社会的責任や情報開示への期待が高まること、また開示に必要なリソースを確保しやすいことがその背景にあると思われます。

この調査から、人的資本開示は全体的にはまだ不十分である一方、経済先進国の大企業を中心に徐々に充実してきていることが分かります。経済の成熟度や企業規模が開示水準を左右することは、グローバルな人的資本開示の発展を考える上で意味のある発見でしょう。

バングラデシュ企業は人的資本の数値開示を避ける

バングラデシュでは、主要企業の人的資本開示にどのような特徴が見られるのでしょうか。ダッカ証券取引所に上場する時価総額の高い製造業・サービス業32社を対象に行われた調査では、2007年から2010年の3年間の年次報告書を分析し、人的資本情報の開示状況とその変化が検証されました[2]

この調査では、従業員トレーニング、従業員数、キャリア開発機会、採用方針、従業員の報酬・福利厚生など、計20項目の人的資本要素について、開示量を「単語数」として測定し、5段階で評価するという手法が用いられました。こうした定量的な分析により、バングラデシュ企業の人的資本開示の実態が浮き彫りになりました。

調査結果によると、バングラデシュ企業の人的資本開示水準は予想以上に高いものでした。多くの企業が開示していた項目としては、従業員トレーニング(100%)、従業員数(100%)、キャリア開発機会(100%)、採用方針(100%)、福利厚生(93.8%)などがあります。これらの高い割合は、バングラデシュ企業が人的資本情報の基本的な側面については積極的に情報提供していることを表しています。

しかし、質的な面に目を向けると、開示内容には偏りがあります。多くの企業が報告しているのは一般的な情報や記述的な内容が中心で、数値データを含む具体的な情報はほとんど開示されていませんでした。例えば、従業員の離職率(3.1%)、従業員の価値(3.1%)、人的資本統計(3.1%)などの項目は、わずかな企業でしか報告されていません。

この傾向は、バングラデシュ企業が定量的な人的資本情報の開示に消極的であることを示しています。数値で表される情報、特に従業員の生産性や価値に関する指標の開示が少ないのです。その理由としては、数値データの収集・分析に必要なシステムや専門知識の不足、数値情報が企業の弱点を露呈させる可能性への懸念、あるいは人的資本を数値化することへの文化的・社会的抵抗感などが考えられます。

時間の経過に伴う変化も注目すべき点です。調査期間中(2007年から2010年)、バングラデシュ企業の人的資本情報の開示量は大幅に増加しました。特に2009/2010年には前年度比で約40%もの増加が見られました。この急増の背景には、2008年以降、バングラデシュの中央銀行や国家収入庁が社会的・人的資本情報の開示を促進する施策を導入したことが影響していると述べられています。制度的な後押しによって、企業の開示行動が変化した事例と言えるでしょう。

業種別に見ると、銀行業界が人的資本開示に最も積極的でした。多くの銀行が自社の研修施設を持ち、従業員の育成に力を入れていることが報告されています。これは金融機関が人的資本の質を競争力の源泉と位置づけ、また規制当局からの監視も厳しいことが背景にあると考えられます。一方、電力・エネルギー、繊維業界などは開示項目数が少なく、報告も比較的表面的でした。

開示の方法についても特徴的な点が見られました。人的資本情報は主に取締役報告書の中で報告されており、専用のセクションで報告している企業はありませんでした。これは人的資本情報がまだ体系的に認識されておらず、報告の枠組みが十分に整備されていないことを示唆しています。

人的資本の開示が役員情報に偏る国もある

マレーシアの企業における人的資本開示には特徴的なパターンが見られます。マレーシアの上場企業100社の年次報告書を分析した調査と、現地の金融アナリストやファンドマネージャー15名へのインタビューを組み合わせた研究からは、人的資本情報の「供給」と「需要」の間にギャップが存在することが判明しました[3]

この研究の独自性は、年次報告書に実際に開示されている人的資本情報(供給側)と、投資家が意思決定のために必要としている情報(需要側)の両面を調査した点にあります。人的資本開示の研究は企業からの情報提供に焦点を当てたものが多く、情報利用者の視点を取り入れた研究は希少です。

金融アナリストやファンドマネージャーへのインタビュー調査によると、彼ら彼女らが最も重視する人的資本情報は、企業の競争優位性や将来的な成長に直接関わる要素でした。具体的には、経営陣や主要な管理職の能力・経験・動向、従業員の離職率とその理由、従業員のモチベーションや満足度、報酬体系、教育・訓練の状況などが挙げられました。アナリストらはこれらの情報を「価値創造者(Value creators)」に関する情報と位置づけ、投資判断において重要視していました。

ところが、年次報告書の内容分析からは、実際に開示されている情報の大半が「取締役(Director)」に関するものであることが明らかになりました。取締役の経験年数や資格、技能などはほぼ全ての企業で開示されていた一方、従業員や中間管理職に関する具体的な人的資本情報(離職率、従業員満足度、依存度など)はほとんど開示されていませんでした。

アナリストが求める「主要人物(Key people)」に関する情報や「従業員満足度」「従業員離職率」といった情報は、非常に限られた数の企業しか提供していませんでした。このことから、マレーシア企業の年次報告書における人的資本開示は、投資家の意思決定に実質的に役立つ情報ではなく、「名目的な人物(Figureheads)」に関する形式的な情報に偏っていることが分かりました。

この現象はなぜ生じるのでしょうか。研究者らは、社会的・文化的背景がこの開示パターンに影響していると分析しています。企業が「社会的・政治的に権威のある人物」を取締役として置き、その情報を開示することで社会的正当性を獲得しようとする傾向があります。取締役の情報を詳細に開示することで、企業の社会的地位や信頼性を高めようとしているのです。

それに、人的資本の詳細な情報を開示することには企業にとってリスクも伴います。優秀な人材に関する情報を開示すると、競合他社による人材引き抜きの可能性が高まります。人材の流動性が高い市場では、こうした懸念が企業の開示姿勢に影響を与えているとも考えられます。

研究者らは、投資コミュニティに役立つ人的資本情報を提供するためには、企業が開示する情報の焦点を「象徴的な取締役(Figureheads)」から「実際の経営者・管理者(Value creators)」へと移行させる必要があると提言しています。実質的な企業価値の創出に直接関わる人材に関する情報こそが、投資判断において価値があるからです。

スリランカ企業の人的資本開示は結果重視型

スリランカにおける人的資本開示の特徴を探った研究では、コロンボ証券取引所に上場している時価総額上位30社を対象に、2年間(1998年および1999年)の年次報告書が分析されました[4]

調査では、Brooking (1996) の人的資本評価フレームワークを基盤にした25項目について、年次報告書に掲載された情報の頻度(項目が報告される回数)と行数(報告内容が占める文章の行数)を測定しました。調査項目には、ノウハウ、教育レベル、職業資格、地域社会への従業員の関与、キャリア開発、起業家精神・革新性、訓練プログラムなど多岐にわたる要素が含まれています。

分析の結果、スリランカ企業における人的資本情報の開示水準は全体的に低いものの、いくつかの特徴的なパターンが浮かび上がりました。最も頻繁に開示されていた項目は、「従業員の特集(写真や名前を年次報告書で掲載すること)」「従業員あたりの付加価値」「訓練プログラム」でした。一方、「職業資格」「障がい者や多様性に関する平等性の項目」「役員報酬に関する情報」などは開示が極めて少ないことが判明しました。

スリランカ企業がなぜこのような開示パターンを示すのか、研究者らは文化的・社会的背景から考察しています。例えば、従業員の写真や名前を積極的に掲載する傾向は、従業員のコミットメントやモチベーションを高めるための戦略と解釈されています。企業が従業員を公に認知し、その貢献を評価していると示すことで、集団主義的な価値観が強いスリランカ社会において従業員の帰属意識を強化する効果があると考えられます。

「従業員あたりの付加価値」のような結果指標が多く報告されていることも特徴的です。これは従業員へのフィードバックとして機能するとともに、従業員と経営陣の関係強化にも役立っています。スリランカの企業文化では、プロセスよりも成果を重視する傾向があり、それが開示内容にも反映されているのです。

訓練プログラムに関する情報も多く開示されていましたが、その内容は具体的なスキル開発よりも人間関係構築を重視したものが多く、暗黙知(Tacit Knowledge)の活用を目的としていました。これもスリランカの集団主義的な文化が反映された結果と言えるでしょう。

経営陣と労働組合の良好な関係が多く報告されている一方、役員報酬や平等性(特に障がい者雇用)に関する情報が非常に少ないのは、社会的および政治的な影響を避けるためと推測されています。給与格差や多様性の問題は社会的に敏感なトピックであり、企業はこれらの情報開示に慎重になっているのです。

この研究では、スリランカ企業の開示傾向をオーストラリアと比較しています。比較によって明らかになったのは、オーストラリア企業がプロセス重視(起業家精神や仕事に関する知識など)であるのに対し、スリランカ企業は結果重視(付加価値や従業員の貢献の明示など)という文化的な違いでした。

スリランカの事例は、人的資本開示が単純な情報公開の問題ではなく、その国の文化的・社会的文脈に根ざしたものであることを意味しています。集団主義的価値観、結果志向の企業文化、社会的タブーなどが複雑に絡み合って、独特の開示パターンを形成しています。

脚注

[1] Bryl, L., and Truskolaski, S. (2017). Human capital reporting and its determinants by Polish and German publicly listed companies. Entrepreneurial Business and Economics Review, 5(2), 191-206.

[2] Khan, M. H.-U.-Z., and Khan, M. R. (2010). Human capital disclosure practices of top Bangladeshi companies. Journal of Human Resource Costing & Accounting, 14(4), 329-349.

[3] Huang, C. C., Luther, R., Tayles, M., and Haniffa, R. (2013). Human capital disclosures in developing countries: Figureheads and value creators. Journal of Applied Accounting Research, 14(2), 180-196.

[4] Abeysekera, I., and Guthrie, J. (2004). Human capital reporting in a developing nation. The British Accounting Review, 36(3), 251-268.


執筆者

伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。

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