ビジネスリサーチラボ

open
読み込み中

コラム

人的資本開示が企業価値を高める:市場評価から透明性向上まで

コラム

企業の競争力の源泉は有形資産だけではなく無形資産も含むようになっています。「人的資本」と呼ばれる従業員の知識、スキル、経験などは、企業の持続的な成長と価値創造において重要になっています。しかし、人的資本は、従来の財務諸表では十分に反映されておらず、企業の価値を評価する上で課題となっています。

こうした背景から、近年では人的資本に関する情報開示に対する関心が高まっています。人的資本の情報を開示することで、投資家は企業の将来性を正確に評価できるようになり、また企業自身も自社の人材戦略を見直す契機となります。さらに、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資の拡大に伴い、「S(社会)」の要素として人的資本情報の重要性が一層増しています。

しかし、人的資本の情報開示は現在のところ多くの国や地域で義務化されておらず、企業による自主的な開示に委ねられています。そのため、開示の内容や方法は企業によって異なり、比較可能性や信頼性の点で課題が残されています。

本コラムでは、人的資本開示が企業にもたらす様々な効果について、学術研究の知見をもとに考察します。例えば、市場評価への影響、企業の透明性や信頼性の向上、株価への効果、そして業種や企業規模による開示の違いに焦点を当てていきます。これらの考察を通じて、人的資本開示が企業価値にどのような影響を与えるのか、そしてなぜ人的資本開示が企業経営において重要なのかを理解する一助となればと思います。

人的資本の開示は企業の市場評価を高める

知識経済の拡大とともに、企業における人的資本の重要性が高まっています。人的資本とは、従業員が持つ知識やスキル、経験などを指し、企業の競争力を支える無形資産です。しかし、人的資本に関する情報開示は多くの国で義務化されていません。

このような状況で、人的資本に関する情報開示が企業の市場評価にどのような影響を与えるのかを調査した研究があります。この研究では、米国企業の人的資本情報、特に労働コストに関する自主的な開示が市場評価にどう影響するかを分析しています[1]

研究者たちは労働経済学の理論を用いて人的資本の生産性や効率性を測る指標を作成しました。具体的には、労働の限界生産性(Marginal Product of Labor: MPL)と労働効率性指標(Labor Efficiency Indicator: LEI)という2つの指標です。MPLは労働投入量を1単位増やしたときに得られる収益の増加分を表し、LEIMPLから平均賃金コストを差し引いた値です。LEIがプラスであれば、企業は人的資本投資から通常以上の収益を得ていることになります。

この研究では、米国の公開企業1165社を対象に、1995年から1999年までの5年間のデータを分析しました。企業を労働コスト開示の有無や企業規模、人的資本指標などによってグループ分けし、各グループの市場パフォーマンスを比較しました。

分析の結果、労働コストを自主的に開示している企業群は、そうでない企業群と比べて市場でのパフォーマンス(リスク調整後の超過リターン)が高いことが明らかになりました。さらに、限界労働生産性や労働効率性が高い企業ほど、市場パフォーマンスが優れていました。

企業規模による違いが興味深いところです。小規模企業の場合、労働コストを開示し、かつ高い人的資本効率性を示す企業が顕著に高い市場評価を得ていました。これは、小規模企業にとって人的資本開示がより重要な役割を果たす可能性を示唆しています。

この研究結果から、人的資本に関する情報、特に人的資本投資の効率性に関する情報が投資家にとって価値あるものであり、市場評価に影響を与え得ることが分かります。投資家は企業の人的資本管理能力を評価し、それを投資判断に反映させているのかもしれません。

人的資本情報の開示は、投資家と企業の間の情報の非対称性を減少させる役割を果たしています。企業内部の人材戦略や労働生産性に関する情報を外部に開示することで、投資家は企業の将来性をより正確に評価できるようになります。これによって、市場の効率性が高まり、資本配分が最適化される効果も期待できます。

ただし、大企業については自主的開示の有無による市場評価の差があまり顕著ではなかったという点も見逃せません。これは大企業の場合、すでに多くの情報が市場に出回っているため、追加的な人的資本情報の価値が相対的に小さくなる可能性を表しています。

人的資本の開示は企業の透明性や信頼を高める

人的資本開示が企業の市場評価を高めることを見てきましたが、人的資本開示のもう一つの効果として、企業の透明性や信頼性の向上が挙げられます。企業が人的資本に関する情報を開示することで、ステークホルダーからの信頼を獲得し、企業の評判を高めることができます。

スペインの大企業を対象とした研究では、人的資本の情報開示が企業の透明性、社会的責任、コーポレート・ガバナンスとどのように関連しているかが分析されました[2]。この研究では、企業の年次報告書やコーポレート・ガバナンス報告書、CSR報告書などの文書を調査し、人的資本に関する情報開示の状況を評価しています。

研究結果によると、人的資本に関する情報を詳細に開示している企業ほど、市場からの透明性評価が高い傾向がありました。とりわけ、従業員の教育・訓練、報酬・福利厚生、労働安全衛生や従業員満足度調査などの情報を提供している企業が高評価を得ていました。

透明性の向上は、企業と投資家をはじめとするステークホルダーとの間の信頼関係の構築に寄与します。企業が人的資本に関する情報を開示することで、「隠すものがない」という姿勢を示し、誠実さや信頼性を印象づけることができます。

この研究では人的資本情報を積極的に開示する企業は、企業の社会的責任(CSR)の評価においても高評価を得ていることが分かりました。これは、企業が従業員を単なる労働力としてではなく、重要なステークホルダーと見なし、従業員の福利厚生や労働環境の改善に取り組んでいることの表れと言えるでしょう。

人的資本開示は、コーポレート・ガバナンスとも関連していることが明らかになりました。独立取締役が多い企業、取締役会の多様性(性別や国籍)が高い企業、CEOと取締役会議長の役割が分離されている企業ほど、人的資本情報を積極的に開示していました。これらの企業は、人的資本開示をコーポレート・ガバナンスの一環として位置づけ、投資家や他のステークホルダーとの関係強化を図っているのです。

人的資本開示を通じた透明性の向上は、投資家だけでなく、顧客や取引先、地域社会といった幅広いステークホルダーとの関係構築にも役立ちます。例えば、労働環境や従業員の福利厚生に関する情報開示は、企業の社会的責任に関心を持つ消費者からの支持を集める可能性があります。

人的資本開示は従業員自身にも好意的に受け止められる可能性があります。自社の人材育成や労働環境に関する取り組みが外部に向けて発信されることで、従業員のモチベーションや帰属意識が高まることも考えられます。

人的資本の自主的開示は株価を上昇させる

人的資本開示が企業の透明性や信頼性を高めることを見てきましたが、こうした効果は最終的に企業の株価にも反映されるのでしょうか。人的資本の自主的開示が株価に与える影響について検討します。

ヨーロッパの32カ国の企業を対象とした研究では、企業が自主的に開示する人的資本情報が市場価値(株価および株価収益率)にどのような関連性を持つかが調査されました[3]。この研究では、1997年から2012年にかけて28,427件の企業年度データを分析し、人的資本の自主的開示(Voluntary Human Capital Disclosure: VHCD)と市場価値の関係が検証されています。

分析に用いられた人的資本開示の指標は、企業が自主的に開示した労働コスト情報です。国際会計基準(IFRS)では労働コストの個別開示は義務付けられていないため、企業が自発的に開示している情報を用いています。

分析の結果、人的資本の自主的開示は株価および株式リターンに対して統計的に有意な正の影響を与えていることが判明しました。これは市場参加者が人的資本情報を企業価値評価の要素として捉えていることを表しています。

人的資本情報が市場価値と関連性を持つ理由として、いくつかの要因が考えられます。初めに、人的資本情報は企業の将来的な収益可能性を評価するのに役立ちます。従業員の能力や生産性に関する情報は、企業が今後どれだけの価値を生み出せるかを予測する手がかりとなります。

また、人的資本情報の開示は企業と投資家の間の情報の非対称性を減少させます。投資家が企業内部の人材戦略や労働生産性に関する情報にアクセスできることで、より正確な企業評価が可能になり、それが株価に反映されます。

この研究では、法体系の違い(コモンローとシビルロー)による影響も分析されました。その結果、両法体系において人的資本情報は価値関連性を持つものの、シビルロー諸国の方が人的資本開示の市場価値への影響がやや高いことが分かりました。これは法的・制度的環境によって、人的資本情報の重要性に差があることを示唆しています。

従来の財務報告では、人的資本は十分に反映されていませんでした。企業の帳簿上、従業員関連の支出は「費用」として処理され、「資産」としては認識されません。しかし、実際には従業員の知識やスキル、経験は企業の持続的な競争力の源泉となっています。この研究結果は、市場が公式な会計基準を超えて、企業価値の構成要素として人的資本を評価していることを意味しています。

人的資本情報の開示が株価を上昇させるというこの結果は、企業経営者にとって示唆を含んでいます。企業は人的資本に関する情報を開示することで、市場からより高い評価を得られる可能性があるのです。労働コストの単なる開示にとどまらず、人的資本の質や効率性に関する詳細な情報提供が有益かもしれません。

人的資本の開示は業種や企業規模で異なる

人的資本開示が企業の市場評価や透明性、株価に好ましい効果をもたらすことを見てきました。しかし、すべての企業が同じように人的資本情報を開示しているわけではありません。人的資本開示の実態と、それに影響を与える要因について考えてみましょう。

トルコのイスタンブール証券取引所に上場している製造業企業を対象とした研究では、人的資本の情報開示の性質と程度、およびその開示水準に影響を与える要因が検討されました[4]。この研究は新興市場における人的資本開示の実態を明らかにしています。

研究では2010年に上場していた製造業131社の年次報告書を分析し、15項目の人的資本情報について開示状況を調査しました。その結果、企業の人的資本開示の平均スコアは32%(全項目中の開示割合)であることが判明しました。

最も頻繁に開示されていた項目は、従業員数(73%の企業が開示)、機会均等方針(68%)、研修・能力開発への投資(66%)、従業員の報酬(63%)、安全政策(50%)でした。一方、ほとんど開示されていなかった項目としては、従業員1人あたりの付加価値(2%)、従業員の年齢(8%)、労働災害データ(9%)などがありました。ストックオプション制度については、調査対象のどの企業も開示していませんでした。

業種別の比較では、化学業界と食品業界が多くの人的資本情報を開示している一方、繊維業界や非金属鉱物製品業界の開示水準は相対的に低いことが分かりました。業種によって人的資本の重要性や情報開示への意識が異なるようです。

どのような要因が人的資本開示の水準に影響を与えるのかを分析するため、8つの仮説が検証されました。分析の結果、人的資本開示に有意な正の関連を持つ要因として、業種(食品業界と紙・印刷業界)、企業規模(売上高で測定)、監査法人の規模(大手監査法人による監査を受けている企業)、上場年数が特定されました。

特に企業規模は人的資本開示の水準と強く関連していました。これは大企業ほど多くのステークホルダーを持ち、情報開示要求に応える必要があること、また大企業の方が情報開示にかかるコストを負担する余裕があることが理由として考えられます。

監査法人の規模も人的資本開示に影響を与える要因でした。大手監査法人による監査を受けている企業は、人的資本情報をより積極的に開示していました。大手監査法人が企業に対してより高い透明性や情報開示を求めるのかもしれません。

上場年数も人的資本開示と正の関連を示しました。上場期間が長い企業ほど、市場や投資家との関係構築の経験が豊富であり、情報開示の重要性をより深く理解している可能性があります。

一方、収益性、レバレッジ(負債比率)、所有構造(株式分散度)、社外取締役の割合は、人的資本開示の水準との有意な関連が見られませんでした。これらの要因は先進国市場では人的資本開示に影響を与えるとされていますが、新興市場のトルコでは異なる結果となりました。

脚注

[1] Lajili, K., and Zeghal, D. (2006). Market performance impacts of human capital disclosures. Journal of Accounting and Public Policy, 25(2), 171-194.

[2] Dominguez, A. A. (2011). Transparency, social responsibility and corporate governance: Human capital of companies. International Journal of Human Resources Development and Management, 11(1), 29-48.

[3] Elbannan, M. A., and Farooq, O. (2016). Value relevance of voluntary human capital disclosure: European evidence. Journal of Applied Business Research, 32(6), 1555-1560.

[4] Uyar, A., and Kilic, M. (2013). Discovering the nature and extent of human capital disclosure, and investigating the drivers of reporting: evidence from an emerging market. International Journal of Accounting and Finance, 4(1), 63-85.


執筆者

伊達 洋駆 株式会社ビジネスリサーチラボ 代表取締役
神戸大学大学院経営学研究科 博士前期課程修了。修士(経営学)。2009年にLLPビジネスリサーチラボ、2011年に株式会社ビジネスリサーチラボを創業。以降、組織・人事領域を中心に、民間企業を対象にした調査・コンサルティング事業を展開。研究知と実践知の両方を活用した「アカデミックリサーチ」をコンセプトに、組織サーベイや人事データ分析のサービスを提供している。著書に『60分でわかる!心理的安全性 超入門』(技術評論社)や『現場でよくある課題への処方箋 人と組織の行動科学』(すばる舎)、『越境学習入門 組織を強くする「冒険人材」の育て方』(共著;日本能率協会マネジメントセンター)などがある。2022年に「日本の人事部 HRアワード2022」書籍部門 最優秀賞を受賞。東京大学大学院情報学環 特任研究員を兼務。

#伊達洋駆

アーカイブ

社内研修(統計分析・組織サーベイ等)
の相談も受け付けています